不死は実現可能!?― 猫でもわかる塵理論

グレッグ・イーガン「順列都市」の解説。当然のごとくネタバレです。難解と評判な塵理論に挑みます。なにぶん学生なもんで、間違っている箇所が多々あるかと思います。そんなときは容赦なくコメント・トラックバックで批判してください。
長すぎて読めないという方は、8.総括だけでもどうぞ。




 1.無限の意味

全ての可能な文字列。全ての本はその中に含まれている。 

円城塔「Self-Reference ENGINE」の冒頭部分です。実はこれ、円周率のことをさしています。円周率は、現在1兆桁を超える桁数まで計算されており、今のところ0〜9の数字がランダムに現れているように見えます。この状態がこの先の桁でも続くかどうかは分かりませんが、無限に続くランダムな数字の羅列であるとみていいでしょう。無限に続くランダムな数列は、事実上ありとあらゆる数列を含んでいることになります。例えるなら、0〜9の数字が書かれたサイコロを振って特定の数列を出すゲームみたいなものです。こらが普通のゲームなら、振る回数はどんなにがんばっても有限なので、出ない数列もあるでしょう。が、これが無限に振れるとなると、出ない数列などありません。出るまで振り続ければいいんですから。つまり、こうです。円周率は全ての数列を内包している。
また、アルファベットを数字に対応させれば、文字列も数列で表現できます。A=01、B=02……Z=26と番号付ければいいのです。すると、こうも言えます。円周率は全ての文字列を内包している。
もっと言うと、あなたの誕生日や生まれた年も含まれているでしょう。ちょうど、32億桁の円周率データから特定数値を検索していくれるサービスがあるので、試してみてください。
http://www.pisearch.de.vu/
どうですか? 多分見つかったはずです。不愉快なことに、私やあなたが西暦何年何月何日何秒に死ぬかも正確に記載されていると思います。いや、それは『確実に』記載されているはずです。なぜか? 円周率は無限だからです。



 2.連続性と因果性を捏造するのは誰か
文字列を数値化できるなら、パソコンのデータも数値化できるはずです。パソコンの出力結果である、画面のデータについて考えて見ましょう。標準的なノートPCの場合、画面の一点一点を数えていくと800×600個あります。またその点1個それぞれが3万2768種類の色を持っています。ということはパソコンの画面パターンは3万の(800×600)乗=102145600 (10の214万5600乗)パターンあるというわけです。(1無量大数が10の68乗ですから、これは膨大な数です。1無量大数の3万乗。0が200万以上続く数と簡単に考えてください。) 今まであなたが見てきた画面も、これから見るであろう画面も全てこの102145600 のひとつに過ぎません。そしてこの102145600 のパターンは、PC上のデータである以上、全て特定の数列に変換できます。所詮数列ですから、この102145600 パターンすべてが円周率の中に含まれていると言えます。
次の課題は「画面の移り変わり」についてです。
あなたのマウスカーソルを画面の左端におき、そのまますーっと右端まで動かしてみてください。おそらく、滑らかな連続的な動きでマウスカーソルは移動したはずです。ですが、いくらアナログにすーっと移動したかのように錯覚しても、それらは全てデジタルなデータなのです。
つまり、「マウスカーソルが左端にある画面パターン」→「マウスカーソルが1点分右にずれた画面パターン」→「マウスカーソルが2点分右にずれた画面パターン」→ ……… →「マウスカーソルが右端にある画面パターン」なわけです。それぞれバラバラ(離散的)なデータでしかないものが、ちょうど順々に表示されることによって、あなたは連続した動き「左端→右端への移動」を見ることができます。そこに、順序性と因果関係があることは一目瞭然です。
ここまでは誰もが納得するところだと思います。が、ここから急に話が難しくなりますので注意してください。
「左端→右端への移動」この一連の動きに必要なデータは102145600 パターンにすべて含まれています。ということは、円周率の中にも当然含まれていることになります。実際円周率をあさったら「マウスカーソルが左端にある画面パターン」と「マウスカーソルが右端にある画面パターン」、そしてその途中経過の画面パターン、全て出てくるはずです。ですが、順番通りに出てくるとは限りません。円周率はランダムですから、出てくるパターンの順番もランダムに出てくるはずです。(もちろん、順番どおりに出てくる可能性もあります)。さて、円周率の話はとりあえずここまでにしましょう。後でまた出てきますが、話がややこしくなるのでいったん忘れてください。とりあえず、ここに「左端→右端への移動」に必要な全データが出揃ったとします。このデータそのものはバラバラな画面パターンの集まりでしかありません。このデータを使えば「左端→右端への移動」が再現できますが、同様に「右端から左端への移動」も可能です。どっちもデータを表示する順番が違うだけで中身が同じだからです。
つまり、「左端→右端への移動」を構成するデータだけでは、どちらの移動が出てくるか判断がつきません。ただひとつ両者の違いを区別するのは、データを表示する順番です。左からなら「左端→右端への移動」、右からなら「右端から左端への移動」。あなたがデータを表示する順番を決定したために、それ自体はバラバラなデータでしかなかった画像パターンの集まりが、一連の流れである「左端→右端への移動」を創り出したのです。もっと言えば、あなたがデータの順番を認識したために、移動が生まれた、ということです。(大仰に書きましたが、要はあなたがマウスカーソルを左から右へ動かした、ということを別の側面からみているだけです。)
この「左端→右端への移動」問題をあなたはきっとこう考えているはずです。
1.まず「左端→右端への移動」が起こった。これは連続的な流れである。
2.マウスカーソルの操作者の意識はその事実を認識しているだけに過ぎない。この因果関係は絶対である。
さあ、ここでちょっとだけ常識を捨ててもらいたい。連続性は実は錯覚で、本来はバラバラなデータの集まりでしかないことは証明されました。そこで、因果性なんてものも観察者がでっち上げたに過ぎないというのはどうでしょう?
つまり、本来ランダムなデータの集まりでしかないものが、操作者の意思(意識)によって、初めて因果性・連続性のある一連の流れ(パターン)が観測できるという考え方も出来るのです。そこに「左端⇒右端への移動」があったから、そう認識したのでは、ありません。マウスカーソルの位置が左にあるものから、右にあるものへとそれぞれの一瞬一瞬を順番に認識しために、そこに因果性のあるパターン、すなわち「左端⇒右端」への移動が生まれるのです。(この部分が何を言っているか分からない方は飛ばしてくれて結構です。ただ因果性ってのがなんか怪しいと分かればそれで。)



 3.決定論的な精神
やっと、順列都市の話に入ります。人間の意識・精神をコンピュータ内部に完全にコピーできるようなった世界です。彼ら、<仮想現実>内の人間は<コピー>と呼ばれています。そもそも精神とは脳神経による電気・化学反応です。高度なスキャナーがあればそっくりコンピュータ内部に数値化することができるでしょう。しかし、現実世界の脳と仮想現実の脳には大きな違いがあります。現実世界の脳は、複雑な外界からの刺激を受けて、予想できない振る舞いをするでしょう。簡単にいうと、未来は誰にもわからない、それが世界全体についても個人の意識についても、ということです。
ところが、仮想現実の脳は話が違います。脳自体もコンピュータ上のシミュレーションならば、その脳に影響を与える刺激もまたシミュレーションなのです。ということは、ある状態の脳・仮想世界のパターンから、次のパターンを完璧に予測することができます。*1
すべては計算なのですから、当たり前です。未来予測が可能な彼らの精神は完全に決定論的です。*2
このとき、仮想世界をシミュレートするコンピュータは、ラプラスの悪魔となります。



 4.因果性・順序性・連続性―――誰にとっての?
ある瞬間の精神活動パターンをAとする。
Aから一歩先(1ステップ先)を計算するのは簡単です。因果性OK(因果関係がはっきりしており)・順序性OK(それは正しい順序で)・連続性OK(連続したものだ)。
さてここで問題です。Aから百歩先(100ステップ先)のBを計算することは可能か?
答えはNO。コンピュータ内部の計算において、nステップ目を計算するには、その一歩手前、(n-1)ステップ目の結果が必要です。100ステップ目を計算するためには99ステップ目の計算が必要なのです。一気に100ステップ先を計算するのは無茶というものです。因果性NG(因果関係がわからず)・順序性NG(それは間違った順序で)・連続性NG(不連続なものだ)。
―――本当に?
―――本当に、因果性・順序性・連続性というのは絶対確実100%揺るぎ無いものなのでしょうか?
nステップ目が(n-1)ステップ目を計算するまで分からないのは、それは不確定性に支配された<現実世界>だからです。ミスチルも言っているようにTomorrow never knows です。しかし、決定論的に作動し、不確定性が『完全に』ない<仮想世界>は違います。
そんなバカな!? と思う方は因果性・順序性・連続性という固定観念に囚われています。順序性・連続性がいかに恣意的に観察者によって決められているか、そしてそこの因果性を見出すのも観察者の勝手な思い込みに過ぎないということを思い出してください。あくまでも<現実世界>におけるケースではなく、コンピュータ内部の<仮想世界>におけるケースを考えてください。現実世界の人間は、過去から未来へと流れる時間に従い、1ステップずつ思考し行動します。100ステップ先にジャンプすることはできません。しかし仮想世界の人間<コピー>は、完全に決定論的です。つまり思考し行動する際にいちいち「もしこっちを選んだら」「もしあっちを選んだら」といった具合に分岐しません。過去から未来へと一本道に続くルートなのです。つまり、<コピー>はあらゆる瞬間が未来のある瞬間への途中式なのです。
ここで中学校で学んだ数学の初歩を思い出してください。

「同じ方程式を異なる方法で解いても、同じ結果が出る」
        1+2+3 = (1+3)+2

例えば、(1+3)+2というのは、<現実世界>から見れば、順序性はむちゃくちゃです。最初と最後を先に計算し、真ん中を後で計算するなんてしたら、因果性は破綻してしまうでしょう。「会社に行く」という行為ですら、最初に「家を出て」、次に「会社のデスクに着き」、最後に「電車に乗る」というようなわけのわからないことになります。<現実世界>から見れば、そこには円周率のように、ランダムなデータの集まりがあるだけです。
しかし、<仮想現実>内の<コピー>は違います。彼らは決定論的なシミュレーションです。数値なのです。ですから、【1+2+3】と【(1+3)+2】に本質的な違いは無く、未来のある瞬間【6】が計算できればよいのです。1=【初期状態】A 、2=【途中経過】 、3=【100ステップ先の結果】Bと置き換えてみてください。どちらも所詮途中式ですから、100ステップ先を計算することも十分可能だということがわかるはずです。
問題は、順序がなく存在する離散的データを、観察者がどのように選択して認識していくかなのです。外部の観察者がから見たら因果性も順序性も連続性も無茶苦茶な計算でも、<仮想現実>内部の観察者が、n → n+1 → n+2 という意識パターンをきちんと選択するならば、そこには現実と変わらない世界が存在するでしょう。すなわち、因果性も連続性もきちんとした、当たり前の世界が。
「会社に行く」ために、「家を出て」、「電車に乗り」、「会社のデスクに着く」、当たり前の世界が。
そう、相対性理論は絶対空間と絶対時間を否定しました。
そして今、絶対因果性も否定されるべきでです。
因果性・連続性とはあくまで相対的なものであり、ランダムなデータから観察者の意識パターンによって初めて再構成されるものなのです。



 5.永遠の始まり
<仮想世界>内の<コピー>の計算が、<現実世界>の因果性・連続性・順序性とは全く関係が無いことは証明しました。これはつまりどういうことでしょうか? 一気に100ステップ先を計算することができるなら、一気に∞ステップ先を計算することもできます。また順序性にこだわらなくていいということは、次の瞬間までに次のステップの計算をおわらせなければならない、という制約もなくなります。次のステップが100億年先でもかまいません。また、紙に書いた1+2も頭の中の1+2もコンピュータのデータの1+2もデータ上すべて等しいわけですから、計算媒体がコンピュータである必要はありません。<現実世界>においては何も意味しない(因果性・連続性・順序性が見えてこない)ランダムなゴミデータであっても、それが<仮想世界>内の途中式の一部であったりするでしょう。
この時点で、ハードウェアに依存しない、地球がぶっ壊れても続くシミュレーションが実現します。
さてその夢のシミュレーションを目指したポール・ダラムですが、彼は<仮想世界>内部の意識は自然発生しないと考えました。つまり、このシミュレーションはまず初期状態を作る必要がある、と。シミュレーションとは初期状態が次の状態へ変わることの繰り返しですから、初期状態のまま永遠に停止するようなものではダメなのです。まず初めに存在し、そして自らが世界を認識・解釈し、因果性・連続性・順序性のある流れを創る者が不可欠です。現実が当たり前のように進行し、時間が当たり前のように流れるためには、ランダムなデータの集まりから世界をそのように認識できる観察者が必要なのです。
「発進」とはまさにこのことです。「発進」自体は<現実世界>のコンピュータシミュレーションですが、そのコンピュータの電源が落とされてからも内部の意識は、自らのパターンをランダムなデータから拾い上げていきます。なぜか? 彼らの世界には終わる理由が無いからです。今あなたの住んでいる世界が1秒後に終わる理由が無いのと同様に。彼らはそのように世界に因果性を与えているのです。―――自らの観察・認識・解釈によって。



 6.不死の証明

「これを私の探求しつつあった哲学の第一原理として、ためらうことなくうけとることができる」
デカルト方法序説』)

そもそも計算(シミュレーション)とはなんでしょうか。計算とは、初期状態が途中経過(途中式)を経て結果にいたることです。
1+2+3+4+5+6+7+8+9 = (1+9)+(2+8)+(3+7)(4+6)+5 = 10+10+10+10+5 = 45
【初期状態】   =         【途中経過】          =【結果】 
では、計算に必要なものとは何でしょう? 紙とペン。頭脳。計算機械。色々あるでしょうがそれらは全て手段であり、計算そのものではありません。計算に必要なものはその全ての【初期状態】と【途中経過】と【結果】なのです。
そんなものがどこにある? 実際に計算するまではどこにもないじゃないか? いえ、あるんです。ありとあらゆる計算の【初期状態】【途中経過】【結果】全てを記したものが。もうお気づきのことかと思いますが、それは円周率(無限にランダムな数字の集まり)です。
たしかに、今この文章を読んでいるあなたが住んでいる<現実世界>は、いつか終わります。エントロピーの増大は防ぎようがない。宇宙は有限だといえます。しかし、円周率は無限に続く。言い換えれば、ランダムなデータは無限に存在します。そしてその中には、<仮想世界>のある時点での状態を表す数列が、必ずあるでしょう。いや、「ある時点」なんていうものじゃない。その<仮想世界>における全ての空間・全ての時間を表す数列が、必ずあるはずです。
なぜか? そう、円周率は無限だからだ。円周率が無限であるならば、<仮想世界>の時間軸も無限に引き伸ばすことが可能です。つまり、永遠に続く世界・不死が約束された世界というのが有り得るのです。それがこの<現実世界>において計算可能かどうかは問題じゃありません。全地球のコンピュータのリソースを全て使ってもそんな膨大な量のデータを計算することは不可能です。そして<現実世界>の住人にとっては、<仮想世界>は静止した、全く無意味な世界であり続けるでしょう。
だが、<仮想世界>の住人にとっては、<現実世界>の時間など全く関係ありません。<現実世界>から見たら、単に静止したスナップショットにすぎない世界でも、そのスナップショットが全空間・全時間分用意されているのならば、<仮想世界>内部の住人にはそれをまぎれもなく現実として認識するでしょう。つまり、そこでは当たり前のように空間があり、当たり前のように時間が流れてるはずです。そして、<仮想世界>の住人は、当たり前のように意識を持つでしょう。<現実世界>のコンピュータで、実際に走らせた人間の脳のシミュレーションと同じように。(<仮想世界>の住人にとって、時間が流れるということは<仮想世界>を定義する数字(計算結果)が瞬間ごとに変化することだ。実際にコンピュータを使って計算したかどうかは問題ではないです。途中式を含む計算結果がそろってさえいれば、内部の意識によってそれは秩序だった連続性のあるパターンとして紡ぎ上げられていく)。
そして<仮想世界>の住人は、その意識でもって世界と自己が<夢や幻などではなく確かに存在する>という証明を、以下のように行うでしょう。
 「我思う。ゆえに我あり」



 7.代替世界(オルタナティヴワールド)
おまけです。2で出てきたマウスカーソル「左端→右端への移動」問題について、再考します。まず、常識ではこう考えます。
「左端⇒右端」への移動が起こったという、因果性・連続性は絶対である。操作者の意識はその事実を認識しているだけに過ぎない、と。
だが、因果性・連続性は観察者によってバラバラになってしまうと分かった今、こういう考え方の方が自然です。つまり、本来ランダムなデータの集まりでしかないものが、操作者の意思(意識)によって、初めて因果性・連続性のある一連の流れ(パターン)が生まれる、と。しかし、これはあくまでもある操作者Aが観測した、操作者Aにとっての主観的事実です。操作者Bというのがいて、そいつが同じランダムなデータの集まりから全く別のパターンを組み上げてもなんら不思議ではありません。そのパターンは、操作者Aの世界(主観的事実)とは異なるでしょう。だが、まぎれもなくそれは操作者Bにとっては本物の世界(主観的事実)となります。
量子力学でよくでてくる、「観測されたものこそが、観測者にとっての事実であり、そもそも事実とは主観的なものである」という考え方ですね。
さらにいえば、宇宙に散らばるランダムなデータ(作中でいう「塵」)の集まりは、意識を持つ観測者の数だけ、異なるパターンに再構成され得る。(観測者には、私たちも含まれるし、<仮想世界>の住人も含まれる。さらには全く未知の意識体も)。今私たちが住んでいるこの世界も、無限にあるランダムなデータを無限にあるパターンで再構成し直したうちの一つでしかないのかもしれない。宇宙全体を細切れにして、その破片を組み合わせて森羅万象を形作る―――いわば宇宙レベルのアナグラムです。無数の平行世界(パラレルワールド)ならぬ、無数の代替世界(オルタナティヴワールド)。



 8.総括
「ある意識(=精神)がランダムなデータを解釈することで世界が構成される」という概念を感覚的に理解してみましょう。
まず「1+2=3」という計算(シミュレーション)について考えます。これはアラビア数字と数学という2つの解釈の仕方をする人にとってのみ、意味を成します。アラビア数字を分からない人にとっては「1」はただの線であり、「2」と「3」はのたくっている曲線でしかありません。またアラビア数字が分かっても数学をこれっぽっちもわかっていない人にとっては「+」や「=」で何を表しているかは分かりません。つまり、「1+2=3」はそれ自体ではランダムなデータでしかありませんが、ある解釈を用いることで意味のあるシミュレーションとなるのです。
逆に、なんの変哲もないランダムなデータでも、そこに特定の解釈さえ用いれば、「1+2=3」を表すことができます。たとえば、そろばん。分からない人はただのビーズをちゃかちゃか動かしているだけに見えても、立派に「1+2=3」が可能です。またロープの結び目で数を表現するなんてこともできます。これなんかも分からない人にしてみればただの紐でしかありません。もっと飛躍してみましょう。この文章を読んでいるあなたを「1」とし、ミスチルを「2」とし、ドラクエを「3」とします。この解釈の元では、あなた+ミスチルドラクエ、というシミュレーションが確かに成り立つでしょう。
そんな無茶な、と思うかもしれませんがそれを無茶だと思うのは、「常識」という解釈の仕方で世界を捉えているからに過ぎません。「常識」以外の別の解釈で世界を捉える意識にとっては、それがごく当たり前のものとなります。ちょうど私たちが「1+2=3」をごく当たり前のものとして扱うように。つまりどんなモノでも解釈しだいでは「1+2=3」を表すことが出来ます。「1+2=3」ができるなら別の、あらゆる物事だって表すことが出来ます。それこそ世界を丸ごとシミュレーションすることも可能です。どんなモノでも適切な解釈さえあれば無限の物事を表現できるのです。
私たちの住んでいる宇宙はひとつです。そして私たちはその宇宙をあるひとつの解釈によって捉え、ひとつの世界を構築しています。しかし、全く別の解釈を用いれば、そのひとつの宇宙を別の世界へと解釈することも可能です。
私たちの解釈では「1」は「1」でしかありません。しかし別の世界では私たちの「1」が「4」だったり「∞」だったり「Ω」だったり「ミスチル」だったりするかもしれません。解釈の数だけ世界があります。そしてその中には終わりのない世界を解釈できる意識(=精神)もあるでしょう。
私たちはいずれ終わるものとしてしか世界を解釈できませんが、その解釈はこの宇宙の無限にあるランダムなデータを無限に使い倒し、無限に続く世界を解釈し続けるでしょう。永遠は、不死は、そこにあります。



 9.疑問:「発進」は必要だったのか?・不死は実現できるのか?
円周率がありとあらゆる【初期状態】【途中経過】【結果】を全て内包しているのなら、「発進」する必要はなかったのでないかという気がします。ポール・ダラムが苦労して築いた【初期状態】も無限にランダムなデータ(塵)にすでに含まれていてもおかしくはありません。さらに言えば、<現実世界>で生身の自分がどんな形で 死んだとしても、「その人生自体を包含する意識のパターン」が何らかの形で存在する以上、 必ずどこかの世界で目覚めるはずだ、という説もあります。つまり<あなたの人生の物語>がすでに存在する以上、あなたの人生をスタートさせる【初期状態】は存在する。よってそれとごく近い【初期状態】「私は一回死んだけど、また生き返って人生をスタートする」も存在するのでないか、もし仮に存在するとしたら、そのリスタートした人生を死んだ時も意識は同様の【初期状態】を拾い上げる。このループは永遠に続きうるので、結果あらゆる意識は途絶えない、すでに不死は実現している、という怖ろしいまでにご都合主義な仮説です。この仮説が真実だとすると、ポールは無駄死にもいいとこですよ。しかし、自分が不死であるという実感が持てた分、死の恐怖を感じずに安らかに死ねたのかもしれません。また、ポールが再生するはずだった新世界もエリュシオンのように快適な場所ではなく、地獄と呼ばれるようなひどい場所だったかもわかりません。そういう意味ではなかなかの人生だったのでは。
塵理論だとイマイチぴんと来ない人はこう考えてください。すなわち、確率的に宇宙の開闢から終焉まで時間をかけてもありえないスーパーラッキーな事象でも 永劫の時間をかければ起こりうる。 それがこの宇宙で起こるか、子宇宙、孫宇宙、量子力学的並行世界、塵理論的代替世界のどれかで起こるかはわからないが、でも、とにかく起こりうる。つまり、もしあなたが死んでも、どこかでその意識がそのまま生まれ変わるスーパーラッキーチャンスが到来するから、来世は確実にあるんですよ! もちろん前世もありえますね!  ということです。まあ、この可能性を否定することは誰にも出来ないけど、 それは一般的には「不死」とは言わず、「来世信仰」と呼ばれますね(笑) しかし、よく考えると無限の時間なんて本当にあるのかどうかもわからないし、たとえスーパーご都合主義の【初期状態】が有限個存在しても、他の無限個の可能性がそれを選択することを私たちに許さないのではないだろうか。有限を無限で割ってみて、確率的に0です。(と、某巨大知性体なら言うだろうなあ)
というかこういう考え方自体なんとなく不健全な気がします。量子力学多世界解釈によれば並行世界のどこかで完璧な人生を送っている自分がいるから、 今この自分がクズみたいな人生を送っていも、どこかで最高の人生を送る自分がいる、 だから「自分」の人生は素晴らしいものなんだ、という考えと同じくらい虚しいですね。「自分」を拡大解釈しすぎです。なんとなれば、私たちはただ一度きりの人生を生きているのだから。 けど、今こうしてブログを書いている私や、そのブログを読んでいるあなたの世界認識のパターンが死と共に虚空へ消え去ってしまうのは寂しいですね。淡い期待以上のものではありませんが、やはりパターンは塵のどこかに残るんじゃないだろうかと思います。それは不死なんて大それたものではなく、案外昔の純朴な人間が信じた不滅の魂なるものと大して違わないのかもしれません。なんてことだ。SFしてたはずがいつのまにか帰ってきてしまった。まあ、また考えがまとまったら追記したいと思います。


感想リンク

上記のサイトの素晴らしい考察は一読の価値有りです。大変参考にさせていただきました。感謝に感謝を重ねて感謝申し上げます。特に前半部分は多少インスパイヤしすぎたきらいもあります。ごめんなさい。これもひとえにリスペクトとオマージュの一環とご理解いただければ助かります。

*1:ただ、外部からの刺激(現実世界のニュース・情報など)がある場合、仮想世界のパターンをすべて計算で求めることはできなくなります。

*2:だからといって自由意志が無いとも一概には言い切れません。精神を自己が望むものを求めるプログラムだとすると、それがたとえ予測可能な思考・行動を取ろうとも、本人にとっては自分の自由のままに最善を尽くした結果だと言えます。しかし予測が可能、未来が決まっている、といった拘束感が自由のイメージと相反するため、やはり自由意志は存在しないという向きもあるでしょう。