自由からの逃走 / エーリッヒ・フロム

フロムによれば、近代人は自由になったが孤独になった。この孤独から逃れるために近代人は「個人的自己からのがれること、自分自身を失うこと、いいかえれば、自由の重荷からのがれること」*1  を望んだ。これが全体主義の起源であった。しかし、ここで問われている「自己」の定義がいまいちはっきりとしない。自分自身を失いたいのならさっさと首でも吊ればいいのである。そうはせずに思考停止に陥って全体主義の歯車と化したいというのだから、ここではやはりもっと正確な定義を与えるべきだろう。

僕は、「自己」は視線だと考える。それは、外部から存在としての「わたし」を眺める想像上の視線なのだ。まったく意味がわからないだろうけどもうすこし話をきいてほしい。この話はそもそも自己とか自我とか心なんていうものが、なぜ生まれたのかということにさかのぼる。はっきり言って意識・心なんてものは生きていく上で必要ない。ではなぜこんな心なんていう、生きていく上で面倒な性質を身体は獲得したのだろうか。「サイエンス・イマジネーション」収録のエッセイで、生物言語研究者の岡ノ谷一夫は「自己」は適応の結果偶発的に生まれたものだという仮説を立てていた。
その適応とは、他者の行動を予測する、という能力の獲得だ。その場しのぎで場当たり的に対応するよりも、事前に「相手はこういうときにはこういうことをしそうだ」と予測することは自己の生存に有利に働く。狩りをする動物にとって獲物の行動を予めシミュレートすることは合理的だろう。人間は一人で狩りをせず、仲間と共同で生活するので、同じ人間の行動を予測することも合理的だ。そのように適応して当たり前とさえ言える。
では、この行動の予測が他者に対してではなく、自己に向けられたらどうだろう? 自分がどういう状況でどういう行動をするのか、そう考え始めたときにはじめて、その脳は「自己」とか「意識」とかを生んだのではないだろうか。自分がどういう行動をするのか・どのように感じているのか、そういったことについて意識すること・考えること・予想すること、それこそが心なのではないだろうか。
この仮説は心がどのような機能を持っているかに答えているだけで、そもそもそうした予測を行っているものは究極的に何なのかには答えていないように思える。しかし、心がどのようなあり方で「自己」を生みだしているかをはっきりさせている点で有益だ。「自己」とは世界を認識する主体として構成されているのでなく、むしろ世界の内部で這いつくばる一個の対象として(仮想の外部から)視認されている。とすれば、必然的に「自己」とは有限なものとして発見されることになる。ただ本能のまま自然に動き出す身体には、圧倒的な世界のみが見えており、自己はどこにも見出せない。しかし、ひとたび自己に対して視線が向いてしまえば、大きな世界の中を這いつくばるみじめで小さな自己を発見してしまう。え? つーかおれ死ぬの? マジかよ勘弁してくれよ。そういった死への恐怖も生まれる。永遠で広大な世界に対する、ちっぽけで儚い「自己」への視線を止めることができるのならば、「わたし」はどんな代償だって支払うだろう。
フロムは「自己」の有限性への絶望と、世界の無限性・全体性へ回帰したいという渇望を近代人に特有のものだとしている。*2  だとすれば、中世の人間は「自己」への視線を持っていなかったのだろう。その視線の対象にあるのは「ムラ」とか「コミュニティ」とかいうものであり、矮小な「自己」でなかったということなのかもしれない。また現代のコミュニケーションが生身の「自己」を通してではなく、「キャラ」を通して行われるのも、矮小な「自己」を直視したくないことの現れなのかもしれない。


フロムはハイエクを読むべき

フロムは「個人」を、「自己」への視線に耐えることができない「わたし」と定義した。これは「自己」への視線を絶えずもっているということを意味しない。時にはパチンコにはまり忘我の境地で1万円をすったりすることもあるだろう。しかし、「自己」への視線をときたま忘れることはあっても、ふと我に返って「何やってんのおれ……」と自己嫌悪がはじまり、「自己」への視線を完全にぬぐい去ることはできない。しかしそうした日常の荒波に振り回されながらも、究極的にこの人生はおれのものであると是認し、まあいいかと開き直って世界に手を出そうとすることはできるだろう。そうしたあり方―――自発性―――がフロムの処方選のようである。
しかし、そうした自発性を持っているはずのフロムが全体主義を招いた計画経済を支持しているのを見ると、心理学的な処方選だけでは全体主義を克服できないと痛感させられた。*3  計画経済(計画化)を批判したハイエクによれば、全体主義福祉国家をめざす純朴な人びとがまねいた予期せぬ誤りである。 詳しくはハイエク「隷従への道」を読んでいただきたい。

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