ウィトゲンシュタインはイーガンでも読むべき――鬼界彰夫「ウィトゲンシュタインはこう考えた」

ずっと気になっていた哲学者だった。なにかあるたびに「それって言語ゲームだよね」などとドヤ顔ではぐらかす連中に負けたくなかった、というのが動機である。あまり期待はしていなかったが、その分思わぬ収穫もあった。
以下は完全に「私」用のメモとして記すが、暇だったら読んでもらいたい。



およそ語られうることは明晰に語られうる

ヴェルベットモンキー語は論理的推論ができない。このアフリカに棲息する猿は「鷲」「大蛇」「豹」の三種類の捕食者の出現に対して、それぞれ別の音声を発話する。おそらく、その内容は「鷲が来た」「大蛇だ、逃げろ」「やべえ、豹だ」といったふうに解釈することができるだろう。たとえその内容が3種類とはいえ、これは立派な言語である。
しかしヴェルベットモンキー語で語られうるのは、この3種類だけなのである。たとえば「……ではない」や「……ならば……」といった接続詞は存在しない。だから「鷲は来ていない」や「大蛇が来たならば、豹は来ていない」といった表現は存在しない。
対して、人間の言語は、論理的な接続詞があるおかげで、ありとあらゆることを表現できる。それはまるで、名と接続詞の順列組み合わせからなる無限に多様な表現=「ありとあらゆること」から、任意の一地点を自由に選び取るような能力である。このとき、名と接続詞の無限の組み合わせを「およそ語られうること」と定義するならば、人間の言語はまさにその無限の組み合わせのどれをも「明晰に語りうる」。この意味で、人間の言語は極大の表現力を持った言語と言える。

語りえぬことについて沈黙する必要はない

とはいえ、「およそ語られうること」は無限の思考を意味してはいない。人間の思考の限界に応じて、「語られうること」の範囲は自然と限定されている。当然「語りえぬこと」について無理して語ることはできない。
余談だが、ウィトゲンシュタインは論理を「語りえぬこと」とした。だが、これはどちらかというと「あえて語るまでもない」ことであり、がんばれば語れる。論理は用いられることが本業であり、論理の形式そのものは本来語ることでもないのだが、だからといって論理を「語りえぬこと」などという神秘的な領域に押し込んで悦に浸るのはあほらしい。

日常性への転換

ウィトゲンシュタインにとって、ありとあらゆる(人間の)言語表現は、名と接続詞の順列組み合わせからなる無限に多様な表現の一部を指定するようなものだった。その一地点は、論理的接続詞によって他の表現へと地続きに繋がっている、論理空間の一部であった。つまりありとあらゆる言語表現は、あるがままで完全に論理的なのであった。そのはずなのだった。
しかし、たとえば「彼は4時に研究室に来た」という表現についてはどうだろう。彼が4時1分に来たらこの命題は偽なのだろうか。4時10分ではどうか。どこまでを「4時」の範疇に入れればいいのだろうか。発話者の意図から考えればいいのだろうか。とするのならば、ありとあらゆる人は自分が使う単語について正確な定義を思い浮かべたうえで、発話していなくてはいけない。が、それは現実ではないような気もする。
では、そんな曖昧な表現を使いながら、僕たちは一体何をやっているのだろうか。

自然史的転換

逆に曖昧さの一切ない数学や論理学について考えてみよう。たとえ人類が滅びても、数学の真理は不動だという考えがある。これを数学に関する反自然主義的見解と呼ぼう。ウィトゲンシュタインは、数学に関する自然主義的見解を採っていた。つまり、数学とは僕らの日常生活の中で経験上有効に機能しているだけの構造であり、それが人類滅亡後もイデアのように不朽の真理として存在しているとは思わなかった。人類が住んでいる数学の島とは、全く別の数学の島だってありうる、とさえ考えていた。
僕たちの島では、自然数の数列は「1,2,3,4……999,1000,1001,1002,1003,1004……」と続く。しかし別の島では「1,2,3,4……999,1000,1002,1004,1006,1008,1010……」と続くかもしれない。そんな数列は不自然だと僕たちは考えるが、それは恣意的な信仰かもしれず、別の島では別の島なりの「自然」が息づいているのかもしれない。
そんな不自然な連中は今まで見たことない、そうあなたは主張するかもしれない。しかし別の島でも1〜1000の間はあなたと全く同様に数列をカウントする。たまたま食い違いが出るほど生活を共有していないだけなのかもしれない。僕たちが「自然に」、皆と「同様に」やっているこの世界は、無数の異なる島同士がまぐれで公約数を形作っているだけの、心もとないものかもしれない。

言語ゲーム的転換

言語表現もあいまいだし、数学も論理学も絶対ではないとなると、僕たちが意思疎通をちゃんと図れているのかも疑問になる。僕たちは言語によって意思を伝える。つまり、言語の重要な部分はその内容であると信じている。現にこの文章を書いている今も、僕の頭の中にある思考が、その内容を維持したまま、このスクリーン上の言語を通してあなたの思考へと流れ込んでいっていることを、僕は信じている。
でもウィトゲンシュタインは信じない。そんな確証はないからだ。あなたのコメントに対して知性ある応答をする僕にしたって、その内実にちゃんとした思考があることを、あなたは決して確認できない。ただ、それっぽくふるまうだけの哲学的ゾンビかもしれない。
では言語を使って、僕たちは何をしているのか。一言で言えば、演じている。何かを。この有様をゲームと呼んでもいい。僕は今、使っている単語の正確な定義も知らずに、そしてあなたと僕が一緒の島に住んでいることを当然のように信じて、この言葉を紡ぎだしている。あなたもあなたでコメントをつけるなり、華麗にスルーして友人に「あのブログの文章、まったく意味がわからんわ。マジで誰得だよ」と毒づいたりするだろう。それに応じて、僕も返答するなり、部屋の片隅でひとり落ち込んだり、いろいろと反応を見せるだろう。
そこになんらかの疎通があると言うのは容易い。僕もそう信じたい。だからといって、現実にその通りのことが起きているわけではない。たとえ起きていたとしても、そのことをあなたは決して確認できない。ただ、一連の反応が連なっていることを事実として認識できるだけだ。そこには何らかの規則に従う、秩序がある。だが、それだけだ。

「痛み」とは何か

「僕は痛い」と僕が発話するとき、「なんだこのブログタイトル自虐的すぎワロタwww あいたたたwwww」というギャグをかましている可能性を除外すると、「僕という個体が痛みという概念を感じている」という直接的な記述となる。対して「彼は痛い」と僕が発話するとき、僕が彼という個体でない以上、その痛みの記述は間接的な推測にすぎない。
しかし、これではあまりにも「個体の内実がたしかにそこにあるはずだ」と確信しすぎている。そのような妄想を抜きにして、今一度事態をありのままに描写しよう。とするなら、「僕は痛い」という言語表現は、そのコミュニケーションの場において「はいはいはい、僕が痛がってますよー、ほら、顔にもこんな苦痛の表情が」といったような、痛みの訴えである。たしかに「僕は痛い」という発言は、そのように機能する。
対して「彼は痛い」はどうか。それは発話者の同情を示す。それは感覚の推測ではない。僕たちは世界を記述するのではなく、世界に向けてある一定の態度を示す。発話も、その態度の一環なのだ。これが言語ゲーム/劇である。

言語ゲームの始まり

ではなぜ僕たちはこんなゲームを演じ続けているのか。この実践の最初期の行動は「規則に従う」というものであった。それ以上は分解も分析もできないものである。原初においてはランダムな軌跡にしか過ぎなかったそれも、しかし時を経るにつれて繰り返し繰り返しルールとしての強度を高めていき、いつしかそれは硬い構造として日常を形作ることになる。
だがそれは、すべての規則を経験的確実性へと還元することに他ならない。ゆえにウィトゲンシュタインは経験的確実性が論理性へと転換する、決定的な境界を探りださねばならなかった。森羅万象を経験的確実性への濃淡として捉え、どこにも己の拠って立つ足場をそなえず、すべては相対的だと宣言する道もあっただろう。だがウィトゲンシュタインはそれを選ばなかった。

言語を単なる反応から区別するもの

言語ゲームのはじまりと経験的確実性が論理性へと転換する地点を知るために、遠回りなようだが、まず言語の根源を解き明かすことにしたい。少々長いが、重要な部分なので引用する。

自らの知を言葉によって表明しうる知を反省知と呼ぼう。それに対して語の運用能力のような単なる使用能力を前反省知と呼ぼう。(中略)


このように言語に関する反省知を持つ者のみが言語を知っているのである。同様に言語は、反省的に知られるときにのみ言語として存在するのである。言語は、それを知り、それを生きる者が反省知を持つものであるときにのみ、すなわち「私は知っている」と言うことのできる者であるときにのみ、言語として存在するのである。言いかえるなら言語は、それを知り、生きる者の「私は知っている」という言明においてはじめて本当の言語として生まれるのである。それ以前、言語はいまだ前反省的な語運用能力にすぎず、本来の意味での言語ではない。(中略)


言語の根源である「私は知っている」という知の言明は、同時に「私」の根源でもある。というのも、この言明をなしうるために子どもは「私」と「知る」を自由に使い、「私」と「知る」という概念を持たなければならないのであるが、これまでそれができなかったがために子供は前反省的な名前知しか持っていなかったのである。言いかえるなら「私は知っている」という言明においてはじめて子供は言語を知る存在としての自分にはじめて言及するのであり、言語を知る存在としての「私」という概念を持つ。本当の意味での「私」の言語ゲームを行うのである。*1


ここで述べられている「知る」について、どれほど甚大で決定的な意味が込められているか、読者にうまく伝わっているだろうか。これまで散々ウィトゲンシュタインは、個人がなんらかの内実を抱いていることを疑ってきた。個人が世界を記述し、その内容を言語でもって表現することをいぶかしんできた。そのウィトゲンシュタインが、ここにきて「知る」という言葉を使ったのだ。それはもはや「世界をそのように理解する」といった生ぬるい代物ではない。むしろ「世界をそのようなものだと宣言する」という、孤独で隔絶された「私」からの布告なのだ。
他の誰かがそれをどのように理解するかは分からない、そもそもそんなものが存在するかも疑わしい、しかし、今ここにいる「私」だけは、そのように「知る」。むしろ、そのように「知る」ものとして「私」がある、ぐらいの壮絶な意味が込められている。おそらく。

言語ゲームのはじまりとしての「私」

「私」のこうした宣言は、他者の判断に左右されない、絶対的なものである。もし仮に世界中の人間がそれを否定しても、それでもなお譲ることのできない、宣言である。ゆえにその宣言は「私」の基盤となっており、単なる経験的確実性を超えた、論理性を備えている。少なくとも「私」にとっては論理性を備えざるを得ない。もしこれが間違っているのなら、「私」の全ての判断が放棄されねばならないほどの、硬く重い認識なのだ。それすらも捨ててしまうのなら、もはや「私」そのものを捨てるに等しい。
そしてこの「私」に関する絶対的な言明から、世界は少しずつその足場を強固にしていく。単なる模倣と反応の繰り返しに過ぎなかったものが、「私」の重みによって言語ゲームへと組み込まれていく。「私」は「私」そのものを賭けのチップとして差し出し、「私」は「知る」と宣言することによって、言語を「知る」、そして言語ゲームを演じる。
その重さは誰にも伝わることはないかもしれないが、しかし少なくとも「私」だけはその重さを「知る」ことができるだろう。

私見ウィトゲンシュタインはイーガンでも読むべき

ウィトゲンシュタイン言語ゲームのはじまりとして「私」を置いた。しかし、結局この、規則に従う存在である「私」とは何であろうか。それを「私」と記述するだけでは、何も言っていない。さらに言えば、なぜ「私」はこの規則に従って世界を認識しているのだろうか、それがわからない。
この問題に対して、唯一答えを出したのがグレッグ・イーガン「順列都市」である。小説としても最高に面白いのでぜひ読んでほしい。

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