ダンシング・ヴァニティ / 筒井康隆

「夢の木坂分岐点」を彷彿とさせる実験小説です。筒井康隆という人は70歳を超えてこんなのが書けるんですからスゴイですね。御大はいまだ健在といったところでしょうか。ストーリーを書くと、ある美術評論家の半生を描いた小説、ということになります。中年から老境にさしかかる主人公というのは今の筒井さんそのものなので、本人が気にしてるであろう「死」というテーマが後半色濃く出ています。特筆すべきは反復する文体です。反復され、繰り返される文章というのは最初は面食らいますが、そのうち慣れます。というのは嘘で面食らいっぱなしでした。
まあ普通のエンタメですと、実はこの反復の意味はこうだったんだよー! な、なんだってー!? というようなオチがつくのですが、それがありません。読者はここで自分なりに解釈する必要があるのです。まず思いつくのが、作者自身が影響を受けた南米文学によくある、とっぴな状況もなにかの象徴などではなく、全てそのままの事実だ、という解釈です。
例えば「海が奪い去られた」という描写があるとします。現代文の入試問題などでは、作者の思い出の海が環境汚染によって見る影も無くなったことを詩的に表現したのだろう、というのが模範解答でありそうです。でもそれは間違いで、文字通り「海が奪い去られた」のです。そんな非常識なことがあるか、と思うでしょうが、そんな非常識な小説だったということなのでしょう。
「ダンシング・ヴァニティ」の反復も特に意味は無く、ただそのままの事実だった、と。その非常識な無意味さを楽しんでください、ということです。
でもやはり、それじゃあ納得できないのでして、読者としては何らかの意味がほしいわけです。いくつか考えられます。

  1. 「SF的並行世界」説:それぞれの反復で微妙に異なるのは、その違いの部分で分岐した平行世界だから。
  2. 「実際に似たような出来事が連続した」説:作家が集まるどんちゃん騒ぎなどはこれっぽいです。
  3. 「夢・空想」説:ある出来事に際し、「もしこうだったら」と空想するのはよくありますが、それを地の文でやったので現実と空想の区別がつかない、というわけです。
  4. 「走馬灯・回想」説:「夢・空想」説と近いですが、全て死に瀕する主人公の回想だったという説です。反復はそのどれが現実だったか忘れてしまい、「あれ、こうだったっけ?いや、こうだったかもしれない」とシーンを未編集のまま放映した(書き出した)というわけです。

この中のどれもでもあるかもしれないし、どれでもないかもしれない。解釈すべき混沌を残すことで、読者は作品を「いい話だった」と消費することなく、いつまでも悩み続けます。ゲームでいうなら、ラスボスを倒しハッピーエンドを迎えることが目的のRPGではなく、知恵の輪のようなパズルというわけです。まあ、書評する側にとっては、あれやこれやと色々書くことがあっていいですね。ハリウッド映画で同じ分量だけ書けと言われてもなかなかできないでしょう。
で、ぶっちゃけ面白かった? と聞かれると返答に窮します。つまらなくはなかったけど絶賛するほどでは……という感じです。実験小説で面白いと思ったのは「残像に口紅を」ぐらいで、なんだかんだいってエンタメが好きなんです。一番面白かった箇所が孫をいじめるいじめっ子をステッキで撲殺するのしないので逮捕されたところでして、やっぱこういう社会派SFが筒井さんの本領だなあ、としみじみ感じました。
余談ですが、ラノベの新作「ビアンカ・オーバースタディ」に期待している人は本作を事前に読んでおくといいそうです。公式HPで筒井さんが言っていました。どうみても、この話からラノベにつながるとは思えないのですが、目玉ちゃん=ビアンカ、とかなんでしょうか。イラストはハルヒの人らしいし、萌えキャラ化されるのは、複雑な心境です。