歌うクジラ / 村上龍

最近の村上龍は「カンブリア宮殿」で、強引に経営者の成功の秘訣をまとめたりしていて、成功の十分条件でないもののをあたかも統計的に有意な十分条件であるかのように喧伝する自己啓発書のような胡散臭さを帯びていて、正直ちゃんとした小説を書いているのか不安だったが、それは杞憂に終わった。本書は、高齢化による労働力不足で移民を受け入れたものの、絶対的な富の不足により内戦状態になり、社会を階層化して分断させることで無理やり治安を維持している100年後の日本を描いた小説であるが、冒頭の30ページ読んだだけで傑作だと予感させた。「五分後の世界」に近い。
いくつかの面白い設定がある。例えば、敬語の廃止だ。2050年ぐらいに起きた文化経済効率化運動という、共産中国の文化大革命ばりの運動があって、その一環で「意思の伝達を非効率にさせ、政治や経営の意思決定において有害」だとして、敬語の使用が禁止される。たしかに、仕事をしている時なんかは、言葉づかいに気を使って多少時間を無駄にしているな、という思いは常々あったが、廃止してしまうというのは面白い。移民が日本語を覚えるハードルを低くするという、実際効率が上がりそうな政策である。また、主人公は父親のデータベースから敬語を知っていたため、昔の知識を持っている特権階級しか使えない敬語が分かる人間として、一目置かれるという展開も面白い。現在の教養のように、上位の階層とつながっているというシグナリングになっているのだ。
また、移民の子孫が意図的に助詞を崩した日本語を使って、日本に対する反抗をしているというのも面白い。「実際がこれはやってみるとわかるのだが、なんとなく意味にわかるけど不自然が日本語となり、かなり読むのにつらかった」。終始こんな感じであり、まさに日本語ネイティヴにしか味わえない居心地の悪さを感じることになる。
さて、本題となるのは、やはり階層社会の設定である。最上層は高度医療によって不死となっているが、中層は簡単な日用品の製造や農作業などの誰にでもできる作業をやり、下層は廃棄物処理などの汚れ作業をする。最下層として、性犯罪者の流刑地となっている離島がある。これらの階層はそれぞれが隔絶されており、鎖国のように階層間の移動は禁止される。その政策効果とは、社会の格差を無くす、ことである。つまり、社会の範囲を小さくして、その小さい枠の中では能力や富の差を無くす、というわけである。そして上の社会の情報をシャットアウトすることで、羨望を抱く機会を封じ、自分の暮らす層を当たり前のように受け入れられるようにするというわけである。
中層以下が人口の8割を占めており、その生活水準は現在の途上国の水準と近い。これをどう受け取るかは難しい問題だ。ある人は、現在の富裕層がその富を一人占めにして、このような格差が生まれるのだと考えるだろう。他の人は、労働力人口が不足する中、外貨を稼げる優良企業も新興国との競争に敗れ、日本人が日本人であるというだけで豊かな生活を送れた時代が単に終わっただけだと考えるだろう。途上国の生活水準といっても、グローバルに見れば、ごくごく平均的なレベルであり、全世界の労働者が等しく同じ市場で競合するようになった、世界的な平等化の一つの過程としてみることもできるだろう。そうはなってほしくはないと、一人の日本人として思いつつも、価値をみんなに提供できない(すなわち、市場価値の低い)人間が、のうのうと過ごしていけるだけの富が十分に残されているかという点については、悲観的だ。
さて、村上龍は、こういった階層社会は結局のところ活力を奪う、という観点で批判しているようだ。同質な人間だけで構成される地域社会というのは、何も考えずに済んでしまう分、想像力が育たない。普段はそれでいいかもしれないが、イレギュラーなことが起きた時に対応できない。実際、この世界では終盤になってほとんど統治機構が崩壊していることがわかるのだけど、そういったことをなんとかして変えようという人がおらず、そういった人が出てくるような土壌がそもそも形成されていない。また、上層の人間にとっても、自分たちだけが快適な生活を送って下層の人間を搾取しているという現実が、精神を不安定にし、一定の割合で幼児を強姦したり殺害したりハンニバルような犯罪が起きてしまう*1。結局は、自由な物・人のやりとりが社会の一番重要な基盤である。そういう立場である。
しかし、この世界の歴史では、その異質さを取り込もうとして失敗したのである。移民の受け入れ失敗だ。移民が安価な労働力となって、何のスキルもない若者が移民排斥運動に走り、その対立が社会を混乱させた。また、移民二世が、親世代が耐えた不平等に耐えきれず、産業界が当初期待していた安価な労働力が、社会福祉上の重荷となるという構図もあったのだろう。個人的な政治信条からは、リバタリアンのはしくれとして移民受け入れ賛成(人の移動を禁止する制度の廃止に賛成)なのだが、現実的に日本で単純労働者の移民受け入れは失敗しそうな気がしている。
異質な他者と接することをあきらめず、なおかつ一定の治安を維持するという、非常に難しいかじ取りが求められているのが現在であり、その一つの失敗例として本書を捉えると興味深い。
なお、アプリ版は坂本龍一の音楽がついているがノイズ的な効果音が大半なので、紙の本を買ってもいいと思う。

*1:これについては、途上国の情報を知っている現在の先進国ですでに起きていてもおかしくはないが、やはり国内での格差のほうがより影響力があるという設定なのかもしれない