森村進教授の講演会 〈 これからの「家族」の話をしよう 〉 がすごい件 part2

ポリガミー(一夫多妻制・多夫一妻性・多夫多妻制)

さて、残った時間で私は、多様な婚姻制度を認めてもいいんじゃないかという主張の中で、一番現在の我々にとっては反直観的な主張について検討したいと思います。それは、「3人以上でもいいんじゃないか?」という主張です。まず、ポリガミーがはたして、どのように過去の哲学者によって評価されてきたかを紹介したいと思います。
ポリガミーとは、一夫一妻性以外の、3人以上の婚姻形態すべてを指します。つまり、一夫多妻制、多夫一妻性、多夫多妻制、すべて含みます。実際には一夫多妻制を指すことが多いです。
その際に、私が興味深く思うのは、17世紀、18世紀の、近世自然法論者の議論です。近世自然法論者は、どんな法的制度も現状の制度を前提にして解釈するということはしません。彼らは、そもそも契約とはなんのためにあるのか、所有権とはなんのためにあるのか、国家の権利はどのように正当化されるのか、といった根本的な議論をするわけで、私は非常に大好きなんですけれどもね。


ポリガミーと離婚の自由を禁止する根拠

さて、面白いのは、彼らはポリガミーと離婚の自由を、かなり似た問題として捉えていることです。ポリガミーを禁止すべきだという人は同様に離婚の自由を認めないのです。また逆に、ポリガミーを許容する人は、離婚の自由も認めるのです。
たとえば「戦争と平和の法」を書いたグロティウスは、ポリガミーも離婚も両方とも褒めたものではないが、法律によって禁止すべきではないと言います。
それから、スコットランドの有名なデイヴィッド・ヒュームアダム・スミス、この2人の先生であったフランシス・ハチソン、この3人はそれぞれ違いはあるけれども、離婚の随意的な自由も、それからポリガミーも両方とも認めるべきではない、と言います。
なぜかというと、自由意思で離婚ができるようになってしまったならば、夫婦を分かれやすくさせ、夫婦間に無用の争いを作り出す、また離婚は子どもにとって有害である、と言い、離婚の自由に反対するのです。ポリガミーについても、夫婦間の愛情を失わせ、複数の妻の間の嫉妬をもたらし家庭が上手くいかない、と言って反対しているのです。
どうして彼らが、ポリガミーと離婚の自由について、共通のファクターを持っているものとして考えているかと言うと、私が思うにですね、彼らは「離婚をして、それから再婚をする、それからまた離婚をして三度目の再婚をする」こういうものを、ある意味で重婚だと考えていたのではないか、こう思うのです。たしかに一時的にみれば、複数の配偶者と結婚しているものではないが、一生を通してみれば、複数の配偶者を持っていることになり、これが望ましくない、と考えていたわけです。


ポリガミーと離婚の自由を許容する根拠

しかし、これに対して、もっとポリガミーに対して寛容な態度をもっていたのが、ジョン・スチュアート・ミルです。ミルは有名な「自由論」という著作において、他人に害を加えない限りどんなことをしても、それに対して他の人が―――とくに国家が―――干渉することは許されない、という危害原理を唱えました。
ミルは、その例として、一夫多妻制をとっていたアメリカのモルモン教徒(今は禁止していますが)について、こう言いました。いくら世間が一夫多妻制について不快感をもっているにしても、妻のほうは自由意思でももって結婚した以上は、他人がそれを禁じるいわれはない、と。
しかし、現在はこのポリガミーを唱える人はほとんどいなくなりました。その例外は、ベッカーです。彼はポリガミーを認めてはいけない理由など思いつかないと言っています。しかし、ポズナーは「同性婚は認めるが、ポリガミーは認めない」立場です。なぜかというと、ポリガミーを認めてしまうと、金持ちで魅力的な男性がたくさんの女性と結婚してしまい、結婚できない男性が増え、男性の間の不平等をもたらす」と言っています。
しかし、私が思うに、現在でポリガミーを認めたって、二人か三人目の奥さんになろうとする女性がそんなにいるとは思えない、とりこし苦労ではないかと考えます。それに、現在の社会では結婚しなくても生きていけるわけで、ポズナーの意見はあまり説得力があるとは思えないのです。


多様なライフスタイル間の平等

最後は、ポリガミーの擁護論みたいになってしまいましたが、そんなことよりも私が伝えたいのは、こういうことです。個人の選択の自由―――ライフスタイルの選択の自由―――を真剣に認めるならば、「同性婚」・「ポリガミー」・「兄弟なり、友人なりが生計を一にして、亡くなった時に配偶者が相続するように、遺産を相続するような、civil union の制度」、これらを認めてもいいのではないか、と思います。むしろ、そうすることが、多様なライフスタイルの間の平等を実現するために必要なのではないか、と思うのです。
ご清聴ありがとうございました。


私見 inspired by 大村教授の講演

森村教授の話は、「法がいかに恣意的な建前を前提にしているか、ということをえぐりだし、その上でより平等な建前を採用しよう、そのためなら法すら廃止しよう」というものです。
たとえば多夫一妻制だと、夫が平等に愛されていないと不満を感じたり、嫉妬するという批判があります。だからといって、それは「妻には複数の夫を愛することもできる」という建前を採用してはならない理由にはなりません。「親は複数の子供をもっても、それらを平等に愛することができる」という建前を僕たちが信じているように、「妻は複数の夫を平等に愛することができる」という建前を認めてもいいのです。たとえそれが、フィクションであっても。
もちろん中国の一人っ子政策のように「親は複数の子供をもっても、それらを平等に愛することができる」という建前を否定し、「親は一人の子供しか愛することができない」という建前で立法した事例もあります。*1
要は、「妻には複数の夫を愛することもできる」という建前を否定する現状の一夫一妻制は、中国の一人っ子政策と同程度には、恣意的な建前(一人の○○しか愛せないはず)に基づいた立法ということなのです。あなたがたとえ一人の○○しか愛せなくても、世の中には複数の○○を愛せる人もいるわけで、そうした人への寛容さを僕たちは持つべきでしょう。


*1:中国の一人っ子政策の主たる立法目的は人口抑制ですが、それだけで個人の「子どもを産む権利」を制限するのは弱いでしょう。おそらく生まれてくる子どもが親の愛を一身に受ける利益 = 親からの愛を分割されない利益というものも、加味されているのではないかと思います。