京極堂の仏教論は正しいのか?

禅に関する講釈は、下記のサイトでかなり批判されています。
http://www15.ocn.ne.jp/~satori/karakuchi/kara_004.html
要約すると以下の2点です。

  • 京極堂が悟っていないため、悟りへの理解が無茶苦茶
  • 特に十牛図に関する説明がダメ

2点目に関しては筆者自身の見解を示し、批判しています。

わたしは、仏教の教えは実に簡単だと思っています。すなわち、心の悩みをつくっているのは、対象に対する“執着”で、その執着を捨てれば、心静かに生活できますよ、と

   ◆執着が落ちるプロセスとしての十牛図

  1. 人生問題に苦しむ・・・・・・・・・ 第一・尋牛〜第二・見跡
  2. 心の問題は執着と知る・・・・・ 第三・見牛〜第四・得牛
  3. 執着が落ちていく・・・・・・・・・ 第五・牧牛〜第六・騎牛帰家
  4. 執着がなくなる・・・・・・・・・・・ 第七・忘牛存人〜第八・人牛倶忘
  5. 心静かな生活に入る・・・・・・・ 第九・返本還源〜第十・入てん垂手

参考:十牛図

なるほど。確かにもっともらしい論旨ですし、仏教に詳しい筆者による意見ということで、信憑性もあります。しかし、私は違和感を感じました。「悟り=執着からの解放」、と単純に捉えたら京極の歯切れの悪い仏教論はそりゃ支離滅裂に見えるでしょう。でも実際、「悟り」という言葉・概念には様々な解釈・信仰・誤解が付随していて、そんな単純に説明できるモノでは無くなっているんじゃないだろうか。ちょうど「死んだら極楽浄土か地獄へ逝く」なんていう民間信仰が本来の仏陀の教えとは何も関係ないのに「仏教」と一般に言われているように。それを大衆は愚かだから(悟りを経験してないから)教えを理解できないと切り捨てることは簡単です。けど、それは独りよがりでもあります。
「悟り」という言葉・概念にはあまりに多くの人々の思いが込められており、それはしばしばお互いに矛盾しています。(しかも、それらは当人たちにとっては「正しい」解釈なのです。―――少なくとも、この人が自分の解釈を「正しい」と思っているのと同程度には)。そんな雑多な概念の集合体である「悟り」の中から理路整然とした部分だけを抽出し、 これこそが「悟り」の本質だと声高に主張し、あげく他の解釈を「全く分かっていない」と貶すのは それこそ自分にとって都合のいい「悟り」に執着しちゃっているんじゃないか、と思います。
例え話をしましょう。手塚治虫は漫画とは何かと訊かれて「風刺」だと答えました。たしかに漫画は現実のある側面を誇張したりデフォルメしたりしますから風刺です。しかしあまりにシンプルすぎる答えではないでしょうか。努力・友情・勝利、恋愛、コメディ、ギャグ、バトル、哲学、思想、シュール、萌え、エロなど、漫画にはたくさんの付随する要素があります。それらも全て漫画という文化の一部なのです。
京極堂は、専門家によるシンプルな解釈を捨て、悟りをとりまく混沌とした文化を語ったのです。いや、語らざるを得なかった。なぜなら京極堂は憑物落としが仕事であり、悟りへの理解の無い凡人たちの誤解こそを語らなければならなかったのです。禅って結局よくわからないよ、悟りって一体どういうことだよ、と迷う大衆たちに、シンプルな教えを授けるのは彼の仕事ではありません。そもそもみんなが「悟り=執着からの解放」なんて悟りきっちゃっていたら、殺人事件なんて起きるはずありません。現に事件が起きている以上、悟りきれていない者たちがいるわけで、彼らの錯綜した信念を代弁するのが、憑物落としとしての京極堂の仕事でしょう。悟りの理解と殺人事件は結びつきそうもありませんから、悟りがどう誤解されているのかを語った方が状況を整理するうえでよかったということです。
うーん、擁護しすぎかなあ。