京極夏彦をやりたくて清涼院流水となったバカミス――「うみねこのなく頃に」

孤島の密室で連続殺人事件が起きる。それも人間には絶対に不可能に思える方法で。人間にできないなら、魔女の仕業。魔女は”い”る。
いやいや、んなわけねーだろ、こんなの全部人間のトリックで説明してやるぜー、魔女の不在を証明してやる!
……という、魔女はいるよ派(というか私こそが魔女だよ派)と、魔女なんていないよ派の、逆魔女裁判が本作の前半なんですが、これだけ聞くとけっこう面白そうなんですよね。魔女だと認めてもらいたい容疑者。これは斬新。
ところが、エピソード5から、魔女なんていないよ派だった主人公が急に悟ったような顔して、魔女はいるよ派に転向して、なんでそんなことになったかも含めて謎解きしないといけなくなり、正直カオスです。迷走しているとしかいいようがない。一応、エピソード8で、すべてが明らかにされるのですが、そこに至る過程が色々おかしい。
究極的には、事実を観測するまでの間は、いかなる主張も妄言も否定できないわけなので、そこに世界を呪術的に解釈する余地が生まれるわけです。悲惨な現実を直視するよりも、自分にとって都合のよい解釈を選び取ることで、心の平穏を得るというのは否定すべきではないですし、時には魔法のような効果を得られることもあるでしょう。たとえば、精神病の症状を、単なる脳の異常だと無味乾燥に宣告するよりかは、妖怪に憑かれたせいだとして責任転嫁してしまったほうがまだ楽だし納得できる、ということもあるやもしれません。
京極夏彦の京極堂シリーズが、混迷極まる認知の歪みから生み出された不思議な事件を、妖怪というフレームを使って、最終的には無味乾燥なファクトの世界に戻す(憑物を落とす)のだとしたら、その流儀を踏襲しつつ、逆回転させて、憑物生存エンドを目指すのが「うみねこ」だったのかもしれません。
ただし、展開の冗長さ、だるすぎるファンタジー戦闘描写、ミステリの限界への”意味不明なまでの”執着によって、読後感としては、清涼院流水の「コズミック」・「ジョーカー」に近く、なんか、もう、疲れたよパトラッシュ、というのが正直なところです。「ひぐらしのなく頃に皆殺し編で泣いた私ですが、泣くには至らず。
ちなみに、原作はやってなく、原作を補完したマンガ版のみです。