一応ラブコメですが、学内政治ならぬクラス内政治のリアリティが凄まじい。あーいるいるこんなヤツ、と現役の学生なら共感できるんじゃないでしょうか。なんといっても、クラス内ヒエラルキーの描写が秀逸。このえぐい舞台設定のおかげで、フィクションにありがちな白ける展開がありません。むしろそのようなフィクション性(こうだったらいいな、という妄想・願望)にとり憑かれた人間の痛々しさ・キモさが前面に押し出されていて、笑えます。
まあ中二病ほどひどくはなくとも、誰しもがほんのちょっと夢見がちだったり空想にハマったりするのが学生時代です。その痛ましくて恥ずかしい行動の裏に隠された心理を、実に的確に批判していて面白い。SFファンも所詮センス・オブ・ワンダーという非日常にハマった人なわけで、身につまされる思いで読みました。*1
宗教批判という普遍的なテーマ
まずこれはニーチェ系の宗教批判としても読めます。宗教も妄想の一種ですから。まあ、一個人のマイ妄想と比べると、王者の風格さえもったキング・オブ・妄想ですけど。しかも個人主義的でパーソナルなマイ妄想に比べて、教祖を頂点とする王制であるところなんかもまさにキング。
世俗的な努力を放棄して、ありもしない理想世界に没入するのが出家の本質です。そして中二病患者はその意味でまさに「出家」しているのです。宗教が死んだ日本では、その役割を個人の妄想が補填しているようです。
普通への回帰は憑物落とし
批評家っぽく解説するなら、妄想によって構築されたファンタジー系のリアリティが、ナマの現実の政治的リアリティと衝突するというダイナミズムを感じました。要するに「普通じゃないもの」が「普通」に押しつぶされ、「イタい」「キモい」というレッテルを貼られる過程がびっくりするぐらい上手なんです。でもそんな味気ない「普通」が天下取るだけで終わるのではなく、「普通じゃないもの」にもほんのちょっと希望を残したのは素晴らしい。「普通」VS「普通じゃないもの」の二項対立でちゃちゃっと済ますのではなく、2つの異なる価値を対比し、止揚したのです。京極堂の憑物落としで言うなら、憑物を完全に落とさず、むしろ憑物のほうを進化させることで事件を解決する、みたいな展開です。
そのおかげで憑物がないはずの常識人がなぜか割を食ってしまいます。
たとえば、久米さんは憑物と上手く付き合ってる理想像として描かれています。さらに言うと本書をはじめとする小説そのものが妄想の有効活用です。SFやファンタジーなんて妄想癖が無いと書けないんじゃないかとさえ思えます。ストーリーだけでなく、その小説の存在そのものが作中のテーマを補強しているという、なんともメタな構造をもった作品です。
自身のジャンルを肯定する力
ギャグと設定だけしか褒めてませんが、これストーリーのほうも見事なんですよ。伏線回収のためにつけたしたようなラストはやや蛇足気味でしたが、それ以外は非常にキレイに仕上がってます。単に笑えるだけのギャグ小説かと思ってたんですが、感動しちゃいました。
うわ、恥ずかしい。ラノベで感動て。しかしこの恥ずかしいものに心動かされてしまう心理すらも、作品内で言及しているのです。そういうものが好きなんだからしょうがないじゃないか、と。好きなら好きで純粋に楽しむのが大人ってもんだろう、と。偏愛を肯定する潔さを感じます。ラノベを見下して調子こいてたら、綺麗にカウンターパンチをくらった気分です。
本書にはラノベである必然性をかなり感じました。たとえばこれが文藝春秋で出版されていたら「あー、結局イタい世界から足を洗ったんだね。ラノベ卒業できてよかったじゃん」と、なんとなくラノベを否定をした格好になったと思います。いくら作中でラノベを擁護しても、その小説自体がハードカバーでは興ざめです。ラノベを擁護するなら、ラノベ自身でその内容を書くべきです。それでこそ、作品の内容と形式が幸福に合致する感動があります。
主人公がそのイタさを嫌悪し、最後には肯定するようになるジャンル―――ラノベ。本書を読んで不覚にも感動してしまった読者は、主人公と同じ道をたどります。
「ラノベはキモい」→「キモいけど、面白い」→「面白ければなんでもいいや」→「《ラノベはキモい》という観念がどうでもよくなる」
つまり、このラノベ自体が一種の憑物落としとして機能するわけです。読者の憑物(ラノベの分際で……という偏見)を見事に利用したメタフィクションなんですよ。京極堂の憑物落としは、人の妄念に妖怪という形を与えることからはじまります。あやふやな気持ちを憑物という具体的な形にすることで、その気持ちを整理しやすくするのです。同じように本書も、それ自体がラノベというイタいジャンルだからこそ、読者は自身が持つラノベへの偏見をダイレクトに自覚できます。憑物がくっきりとしているからこそ、それを物語の力によって落とすことに成功するのです。
本書が一般書籍だった場合、こうはうまくいきません。「感動的なストーリーだったけど、結局おれはラノベに感動したわけじゃない。この世には感動するラノベもあるかもしれないが、そんなのは知らない。第一ラノベというだけで読む気しないし、どうでもいい。だから主人公がラノベを肯定したのは結局そっち系の人だったからで、共感できない」と、逃げることだって可能です。これがラノベだったからこそ「やばい。ラノベで感動してしまった。主人公に共感するわ。偏見も、それを改める気持ちもよくわかる。ラノベ見直したよ」となるわけです。
まとめます。本書には3種類の憑物落としが混在しています。
ラノベ好きの人はすでにこの憑物が落ちているので関係ありませんが、この病気に罹患している人はけっこう多いと思うのでピックアップしました。たぶんこの小説がターゲットにしているのは、ラノベを小馬鹿にしている層です。
1の憑物は完全に落としきれません。だからこそ2の憑物を落とせます。良子の確固たるイタさを見て、自分の中にある拭い切れないイタさを自覚したからこそ、そのイタさからひたすら逃げようとする弱さ(2の憑物)を落とせたのです。そして2の憑物が落ちるのを見て、読者は自分と一郎が全く同じ立ち位置にいることに気づきます。その瞬間、3の憑物も落ちます。
ふぅ。こんなに考察したくなった作品は久しぶりです。