円城塔が難解な3つの理由

今もっとも注目しているSF作家・円城塔について。


 

1.世界観と世界観の狭間

幻想小説では現実そのものを書くのではなく、異世界を書くのがメインです。その現実とは異なる世界観を異世界側から書くとファンタジーとなり、その世界観を現実のルールの中で説明しようとするとSFになります。その世界観が現実離れしていればいるほど、SFファンはセンス・オブ・ワンダーを感じるようです(自分調べ)。
で、円城塔も通例のSFにならって現実離れした世界観を書くんですが、ここで提示されている世界観がやたらと難解なのです。これはハードSF的な難解さではない。もっとややこしい何かだ。そう思う人も多いんじゃないかと思います。たとえば瀬名秀明スティーヴン・バクスターのSFは専門用語が連発されるので難解です。難解ですが、それは世界観のディティールを極微にまでこだわっているがための難解さであり、やっていることはパニックホラーだったり、宇宙を賭けた戦いだったりとわかりやすい。
しかし円城塔の難解さはベクトルが違います。まず何をしているのか、何をやりたいのかがわからない。ひたすら明後日の方向へと疾走する展開に読者はついていけません。
というわけで、ひとまず円城塔のバックボーンである複雑系について考えましょう。複雑系とは世界観と世界観の狭間を探求する学問です。たとえば万物理論が完成し、ミクロな世界での量子の振る舞いが完全に解析されたとしましょう。この世界のありとあらゆるものは量子からできているので、その大元の動きがわかれば後は芋づる式に全ての謎が解明されてもいいはずです。
しかし、そういうことにはなりません。ミクロの物質の動きを説明する物理学が完成しても、マクロの物質の動きを説明する化学はやっぱり必要なのです。またたとえ化学が完成しても、生物学は要るでしょうし、生物学が完成しても心理学は要るでしょうし、心理学が完成しても哲学は要るでしょう。当たり前といえば当たり前のことですが、これにははっきりとした理由があります。
そもそも、これらの学問は全て現実のある側面を説明するために科学者がでっち上げた世界観です。「万物の根源は水である」とか「いやいや火だろ。常識的に考えて……」といったレベルからこの世界観の構築は始まりました。それぞれの世界観は実験と観察を繰り返し、仮説の検証を続けることでより優れたものになってきました。今ではそれらの世界観があたかも真理であるかのようにどっしりと構えていますが、でもその本質は仮説にすぎません。
たとえば、原子核の周りにある電子のモデルは、当初地球と太陽のような関係にあるとされました。

が、今の教科書では電子雲というモデルが採用されています。

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でもこの呼び方は勘違いされやすく、実際の電子は雲のように細かな粒子の集合体でできているわけではありません。実際には、もし観測をしてみたらその場所で見つかる可能性がどれほど高いかを確率の濃淡で表現することしかできません。だからより正確にはこんな感じです(色が濃い場所ほど、電子が存在する確率が高く、色が薄い場所ほど電子が存在する確率は低い。あくまでも確率であって本当のところどこにいるかは観測してみるまでわからない)。

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しかしこれも今のしょぼい観測精度と理論のために真実そのものの姿とは言えません。単なる仮説であり、そう考えたほうがなにかと都合がいいという物語です。
誤解してほしくないのはなにも、物理学使えねー! と言ってるわけではないってことです。物理学のルールは、物理学が規定する範囲においてはたしかに正しいのです。しかしいったん他の領域へ侵犯するとたちどころに役立たずになります。相対性理論でiPS細胞の仕組みを説明しろと言われても困るのです。

相対性理論「いやー僕って物理学の物理学による物理学のための理論じゃないですか。だから物理学用にカスタマイズされているんで、生ものはちょっと……。え? ああ、そりゃあどんな生ものだって相対性理論を適用できますよ。でもぶっちゃけ、ベニテングダケを光の速さにまで加速するには無限大のエネルギーが要るとか、カタクチイワシを極限まで圧縮することでブラックホールが生まれるとか言ってもしょうがないわけで……」
慣性の法則「でも俺のおかげで、スーパーマリオブラザーズのキノコは等速直線運動するんだぜ?」
相対性理論「……ゲーム脳うぜぇ」

要するに科学という世界観は、それぞれのジャンルが規定する範囲でのみ有効なんです。でもそれぞれの世界観同士にだってなんらかのルールが働いているのでは? 物理学のルールと化学のルールが一対一で対応しているなんてことは言わないが、多対多の関係では相互作用しているんじゃないか? ルールとルールがどう対応しているかというルールだってあるんじゃないか?
たとえば、生物と無生物の境界を司るルールや化学反応と意識の境界を司るルールは既存の世界観では取りこぼされた領域です。そういう誰も踏み込んでいない領域にたいして世界観を与えるのが複雑系の仕事です。
そしてそれはひたすら明後日の方向へと邁進する円城塔の作風そのものです。

2.ほどよく意味不明

村上春樹が日本文学という市場に開拓したジャンルとして「ほどよく意味不明」というのがあります。簡単にわかりやすく書いちゃうとほいほいと消費されちゃうので、深意はともかく、とりあえず小難しく書いとけばいいやという風潮です。円城塔もこの流れに乗っかっています。ただ円城塔が他の作家と違うのは、簡単にわかりやすく書いちゃうと論文になっちゃうので、小説としての体裁を保つために村上春樹メソッドを使っているという点です。苦肉の策ですが、このメソッドに特化した作品のほうが芥川賞候補作となるんですから世の中わかりません。

3.曖昧なギャグ

円城塔は「笑い」にたいしてけっこう積極的な作家だと思います。ですが円城塔の場合、ギャグ以外のパートが難解で「何を言っているのかわからないし、こんな冗談みたいな世界が理解できるとも思わない」という感じなので、ギャグを言ってもそれがギャグなのか難解な論理の続きなのか判別つきづらいのです。それはひょっとしてギャグで言っているのか? と常に問い続けていれば、ギャグとギャグ以外の区別もつくんですが、読者にそんな余裕はありません。
ギャグは突拍子もないことを言って、常識的な前振りとのギャップを楽しむものです。難解で冗談みたいな世界観を提供しつつ、実際に冗談も言うというのは邪道なのです。普段マジメなヤツが唐突にギャグを言い放ったシーンを想像してみてください。え? 今のギャグ? いやいやでもあいつが冗談なんか言うはずないしな。もしかしたら深い意味があるのかもしれん。などと無駄に熟考してしまいます。円城塔のギャグもまさにこのような状態にあります。ギャグとしては瀕死の体です。
そうは言ってもやっぱり笑えてしまうのは「ギャグとして死んでいる」という状態が一種のギャグとして機能するからですね。うわ。これじゃギャグなのかセンス・オブ・ワンダーなのか区別がつかないじゃん。ハハ。おもろ。みたいな。
あえてボケを殺してみせることで一風変わったボケを成立させるというこの芸風は、円城塔にはうってつけかもしれません。ストーリーのほうもメタ的な視点を強いるものなので、「笑い」もメタ的な視点で楽しめばいいんじゃないっすかね。とはいえ高度すぎて理解できない人が多数なので、ギャグがスベっているとのクレームがあっても、まことに遺憾であるとしかフォローできません。