これはペンです / 円城塔

不滅の小説。 中編2編が収録されており、表題作はものを書くとは何かという話で、「良い夜を持っている」の方はものを読むとは何かという話です。そしてどちらも、不滅という珍しいテーマを扱っています。僕は「良い夜を持っている」の方が圧倒的に好きで、グレッグ・イーガン「順列都市」に類する作品だと評価します(最大級の賛辞)。架空の世界を構築する男の話という点では村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」と似ていますが、文体も内容もこちらのほうが百倍面白いです。
さて、「良い夜を持っている」では、異常な記憶力を持つ父が登場します。あまりにも記憶が鮮明すぎて、過去の回想と現在の知覚が区別しかねるほどの、超人的な記憶力なのです。この父は、それゆえ時間という概念をうまく理解できません。
たとえば、事象がA→B→C→Dと順番に発生するのを見て、その状態の変化を、僕たちは「時間が過ぎていく」と表現するわけです。当然Bが起きている時には、目の前にAはもう見えていませんし、記憶もだんだんと風化していきます。しかし、本作の父は、A〜Dをすべて同等の現実感と鮮明さで認識することができるので、すべてはそこにまだ「在る」のです。
しかし、それだと現在の時間を認識できなくなるわけで、記憶の整理整頓が必要です。父にとっての整理方法は、対象の擬人化でした。たとえば、「1 2 3 4 5 6 7 8 9」を記憶する場合、僕たちは「1から9までの自然数の数列」と情報を圧縮して覚えるわけですが、父は違います。1から9までの数が擬人化された、架空の生活空間の情景が目に浮かぶのです。それも、現実と区別がつかないほどの、強烈な鮮度でもって。
父にとって、それはあくまでインプットされた現実の回想なのですが、しかし僕たちからするとそれは妄想みたいなものです。僕たちは自分たちと世界観を共有していない人たちを、妄想にふけっていると呼ぶのですから。とはいえ、父にとっては、それが世界なのです。
そしてここからが凄いのですが、その父の世界の終わりを、たとえ肉体としての父が死んだとしても、僕たちは把握できないということです。コニー・ウィリス「航路」では臨死体験においては通常の時間の進行とは異なる体感スピードで、時間は流れるというのがテーマでした。だから可能性としては死にゆく脳細胞が、その一瞬の中で無限の主観時間を経験するということもあるかもしれません。つまり、どれだけ少ない情報であっても、それを無限に長く展開する読み方さえあれば、意識は不滅なわけなのです。
そしてこれこそが、父の能力の核心です。無限の複雑さを持つ現実と妄想を、超人的な情報圧縮能力で記憶してしまえる父ならば、逆に寸前のともしびからも無限の情報量を引き出しうるのではないか。たとえその世界観を、僕たちは決して共有できないにせよ。
しかし円城塔はさらにその先を行きます。父の回想と同じようなやり方で、主人公もまた回想をしだすのです。そして同じやり方で現実を折りたたんでは展開している以上、その世界観は共通するはずです。たとえ両者がまったく物質的に同じ世界にいなくても、両者の主観としては「相手がそこにいる」のです。そのような感覚がわるわけです。両者が同じ景色を見ているのか、確かめることは不可能ですが、それでも交流はできるのです。
実際に僕たちも現実世界において、自分が妄想の世界に生きているだけで実は自分以外全員botの可能性を否定しきれません。とはいえ、日常においてはふつうに交流できるし、自分がきちんと相手を見ていること・相手がきちんと自分を見ていることを確信しながら、生きているわけです。
そうしてみると、現実も回想も、そして妄想も等価たりうるわけで、こんなぶっとんだところまで読者をつれていく円城塔は本当にすごいです。
とくに本書では、奇妙な事を言っているんだけれども、その奇妙さをちゃんと自覚して、読者の隣に座って「どうです? なんか変な事言ってますな」とツッコミを入れる余裕がある。この親切な設計のおかげで、過去の作品と比べてぐっと読みやすくなっています。
もうだいぶ長くなりましたが「これはペンです」の方も解説しておくと、明らかにペンに見えない表紙にもかかわらず、ペンと言い張る面白さがありますね。まずは。そして中身ですが、ものを書くという行為はどこまで自動的になるか、という話です。猿がタイプライター叩いてても偶然意味が通ってたらそれでいいのか、あるいは、まったく無意味な文章でもソーカルの論文みたいに、有意義であると解釈する読者がいればそれでいいのか、とか、まあ色々あります。「良い夜を持っている」のほうなら芥川賞取れたんじゃないですかね。
最後に、この本を誕生日プレゼントとしてくれた基本読書の中の人に感謝を。家宝にします。