恋空やセカチューで泣ける人ほど優れている

美嘉「恋空」や片山恭一「世界の中心で、愛を叫ぶ」で感動したなんていうとネット界隈では人間扱いしてもらえないんですが、あえて言おう。
恋空やセカチューで泣ける人ほど素晴らしい、と。


作品の絶対的な評価などない

たしかに作品の出来はどちらも凡作です。とくに「恋空」のほうは実験的とすら言えるほど伝統的な小説のスタイルを崩しているので反発したくなる気持ちもわかります。実際、私も途中で挫折しました。
しかし客観的にみてよくできた作品が必ずしも大多数の感動につながるかといったらそんなことはありません。むしろ現実はこの逆でベストセラーになればなるほど内容の面では劣化する傾向にあるようです(自分調べ)。これはひとえに大衆が馬鹿だからということなんでしょうか?
違います。ただ単に「恋空」が私のような読書量の多い人間から嫌われているというだけで、その価値を測るのはあくまでもそれぞれの読者次第なのです。小説の出来が素晴らしいから感動するのではなく、読んで感動したからその小説は素晴らしいといえるのです。だから「恋空」で泣いた人の感動と涙は、その人自身の感性によって保障されており、他人がどうこう言ったからといってその価値がゆらぐということはありません。
そうは言っても「恋空」はスイーツ(笑)などとネタにされ続けています。これは一体どういうことでしょうか?
ここには自分が駄作扱いしているものに価値を見出す人がいるのが信じられないという、視野の狭窄があります。また作品はおろか、その作品で感動した人をも貶めることによって、自分が精神的に優位に立とうというせせこましい意図が隠されています。

スイーツ(笑)カルーアミルク(笑)と同じ

これは構造的に飲み会でみんながビールを頼んでいるのに一人だけカルーアミルクを注文している状況と一緒です。「カルーアミルクって(笑) あんなの酒じゃないっすよ(失笑)」。意訳すると「自分はお酒飲み慣れてますんで、カルーアミルク程度じゃ満足できません」ということなんですが、ここにはアルコール度数の高い酒のほうが偉く、カルーアミルクは価値が低いという暗黙の了解があります。
でもこれは考えてみれば変な話で、弱い酒で満足できる人のほうが、経済的にも健康的にもコストパフォーマンスがいいはずなのです。それなのに、そのメリットがあたかもデメリットであるかのようにされてしまっています。そもそも強い酒じゃないと酔えないというのは、燃費の悪い車と一緒でeconomyの面でもecologyの面でも劣った仕様なのです。酔うことが目的のはずなのに、いつのまにか酔いにくい人のほうがもてはやされるようになるというのはまったく奇妙な逆転現象としか言いようがありません。
人はなぜカルーアミルクをアルコールが低いと馬鹿にするんでしょうか? おそらくここにはカルーアミルクで満足できる人への嫉妬が込められています。自分がまだ酔っていないのにそんな程度の低い酒で満足しているのはけしからん。ムカつくから叩いてやれ。こんなんですぐ酔っ払いやがて、どういうことだよ! そういう心理があるはずです。
読書も飲み会と同じです。本を読んで感動したり泣いたりするのがもともとの目的だったはずなんですが、いつのまにか「高尚」で「深遠」な玄人好みの作品がもてはやされるようになりました。読者のほうも何にでもすぐ感動できる素直な人間よりも、選り好みの激しい不感症じみた人間のほうが通だとされました。感動の閾値スレッショルド)が無駄に高く設定されている彼らは、自分たちのコストパフォーマンスの低さを棚に上げてこう罵るです。スイーツ(笑)と。

スイーツ(笑)→スイーツ(優)

他を叩くことによってひとり悦に入っている人ほど情けない人間はいません。スイーツ(笑)と嘲笑している暇があったらスイーツ(優)と尊称し、その価値観を褒め称えるべきです。高度経済成長が終わり、全体のパイが縮小してきている現代の日本では、流通する価値や感動はこれからますます先細りになっていくでしょう。そんな暗い時代にインスタントラーメンよりもたやすく感動と涙を手に入れられる彼女らの力は、決して馬鹿にできません。スイーツ(優)のいるところでは、そこがお茶の間だろうがゴミ処理場だろうが光が降り注ぐでしょう。見よ! そこにこそ価値の創造がある! と100年後の哲学書に記されているはずです。
今こそ私たちはカルーアミルクをがぶ飲みし、スイーツをむさぼり食うべきです。