マウス / 村田沙耶香

村田沙耶香の青春小説。大人しくて地味な女の子と、キモがられてクラス内ヒエラルキーから取りこぼされた女の子の話。こういうのが読みたかった。森絵都が好きなんですが、もっとシビアな設定で書いてほしいなあと思っていました。「永遠の出口」はなんだかんだいって健全な話だったし、「カラフル」はイジメとか設定は暗かったけど奇跡を使っちゃうし。シリアスな舞台でなんとか生きようとする森絵都主人公が読みたかった。そして本書はまさにそんな感じの話なんです。白岩玄「野ブタ。をプロデュース」からギャグとフィクション的なオチを抜いて洗練したとも言えそう。

学校という場所はスーパーのようなもので、私達は陳列されているのだと、私はようやく気づき始めていた。私達を評価するのは大人たちだと、私はずっと思っていて、いい子であるようつとめていた。けれど、本当の買い手は生徒たちの方だったのだ。そして、そのことにずっと前から準備をしていた子たちに、私はいつのまにか随分置いていかれていたのだった。平然と価値の低い女の子を見下す男の子も怖かったが、女の子たちの目はもっと怖かった。


うわあ。これは心に刺さります。こういう生々しいスクールカーストの描写が秀逸。あと主人公小5なのに空気読みすぎでしょう。これとか。

人との会話はワークブックに似ている、と私は思った。相手の性格や状況などを考えてできるだけ素早くどんな返事が求められているか把握し、的確な返答を考え出すのだ。そう思うと、前ほど難しいことではないような気がした。私は淡々と、答えを埋めていった。

達観してやがる……! こんな小学生いるんだろうか。でも現実にいるとしても、それが内面を気取らせない技術であるがゆえに周りは気づかないんでしょう。
主人公も、友達の塚本瀬里奈もどっちも地味系です。

【地味系 (趣味:特になし)】
これといった趣味を持たず、目立った特徴がない人達。スクールカーストCランクの人間がこの階層に属する。
趣味の差異化ゲームでは、プラス要因もないがマイナス要因もないため、オタクほど「下」に見られているわけではないが、他者承認が得られるほど地位が高いわけでもなく、かといって「オタク」ほど自己満足を得られるわけでもないという、「すべてが低め」な階層。

http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2006/03/map_ver2006_001_ef82.html


しかし主人公が空気読める地味系であるのにたいし、瀬里奈は空気読めない地味系です。それゆえに瀬里奈はキモ系です。主人公は自分が一生懸命空気読んでるのに、瀬里奈はどうしてあんなにマイペースを貫けるんだろうと不思議に思います。(このあたりの構図は綿矢りさ「蹴りたい背中」と似ています)。
主人公は、瀬里奈が空想の「灰色の世界」を作って、その妄想に浸ることで自分を保っていることを発見します。そんな暗いところにいちゃダメだよ! と思った主人公は瀬里奈に明るい世界を教えてやろうとして「くるみ割り人形」を読んで聞かせます。そしてその朗読がなぜか感動的だったらしく、瀬里奈は「くるみ割り人形」のマリーに憧れるようになります。*1
その日から瀬里奈のマリー化が始まります。それまでの暗い性格が打って変わり、威厳を備えた女王のような性格に変わります。最初は安心する主人公ですが、瀬里奈がどんどん元の性格を忘れていくにつれ、「本当の自分」を失くしてしまってるんじゃないかと心配になります。以下ネタバレ。



時期 小学生 大学生
主人公  地味系 自分のキャラの範囲でできる限りおしゃれする地味系。バイトに自己満足を見出すも、他者承認を得られないことに悩む。
瀬里奈  キモ系(マリーになりきることで勝ち組に出世) モデルの仕事をする女王様系美人で勝ち組。本人は勝ち組であることを気にしていない。マリーであることに自己満足し、他者承認に興味がない。

瀬里奈はもともとモデル体型の美系だったのでマリーになりきることで出世しました。主人公はこの瀬里奈にたいして複雑な感情を持っています。「本当の自分のまま生きていないのはおかしいよ。マリーなしで生きられるようにしたほうがいい。でもマリーになりきることをしなくても瀬里奈は相変わらずマイスペースだよね。というかマリーになりきっているときよりも、よっぽどマイスペースじゃん。それでも上手く世間を渡っていけるのは瀬里奈が美人だからだよね。ずるいなあ」。
一方、瀬里奈のマリー化を批判した主人公も一見社交的なようでいてマジメキャラから抜け出せていません。「バイト仲間が恋愛を楽しんでいるのに、自分はマジメなだけでつまんない人間かもしれない。結局自分も暗かったころの瀬里奈と同じように、自分の世界に閉じこもっているだけかもしれない」。
この物語は「なりきること」の複雑さを描いています。主人公は「マジメな自分」になりきることで、瀬里奈はマリーになりきることで、それぞれ社交性を身に着けています。主人公はマジメな自分に嫌気がさしていますが、瀬里奈はマリーになりきることを心から受け入れています。キャラを演じることの受け止め方がこの2人で違うように、「なりきること」というのは一概に良いとも悪いとも決め付けることができない問題です。本書ではこの複雑さを目の当たりにして揺れる心が、実に丁寧に描かれています。そのささいな心の機微に感動しました。

*1:ここが一番不自然なんですが、小学生という多感な時期なんでアリでしょう。そもそも瀬里奈にとってはこの朗読が生まれてはじめての他者とのコミュニケーションだったのかもしれず、それゆえに深い感動を与えたということなのかもしれません。