何度でも言う。「おやすみプンプン」は素晴らしい

破壊力。これはもはや表現力などという単語で形容できるレベルではない。この作品は破壊力がある。そう形容しないと気がすまない。それほど、この作品には心えぐられる。下衆がいっぱいでてきて、しかもその下衆が延々と自分語りするという点でドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」に近い。だが個人的には断然こちらのほうが面白い。町田康「告白」に匹敵する。


破壊力の源泉は、この物語が一人称で語られる点にある。主人公のプンプンはひよこ型の謎の生命体として描かれているが、作品日世界ではただの内気な男子学生である。当然、人間だ。主人公とその親族以外は、ふつうの人間として描かれているのに、なぜ主人公を人間の姿で描写しないのか。それは、この作品が一人称で描かれる、主観的な物語だからだ。
主人公の姿を人間として描写してしまえば、その時点でそのマンガは第三者の視点から見た客観的な物語になってしまう。そもそも、人は普段、自分を人間としては認識していない。なぜなら視野の中に自分の姿は映らないからだ。だから、人は自分のことを客観視できず、どこか特別扱いしてしまう。そういった己の自己中心的な視野を保ちつつ、マンガにするのは至難の業だと思う。小説なら一人称で書けばそれですむ。しかし、マンガで一人称の視点から描くと、主人公の姿が一切出てこなくなり、読者は物語の環境がまったく理解できなくなる。
そこで著者の浅野いにおは、主人公を抽象的なひよこ型のなにかに置き変えることで、この問題を解決したのだ。だから絵的に見れば、神の視点から見た三人称の話なのだが、そのストーリーは一人称のそれとなっている。画期的だと思う。著者には最大限の賛辞を送りたい。
肥大した自意識により世界がぐちゃぐちゃになっていく過程を三人称で見ると「闇金ウシジマくん」になり、一人称で見ると「おやすみプンプン」になる。どちらも風景や人物描写はリアルなところは共通している。だが、この二作を読み比べてみると、いかに「おやすみプンプン」が冒険的な作品かがわかる。