タイタンの妖女 / カート・ヴォネガット

カート・ヴォネガットの代表作。過去・現在・未来にあまねく存在するようになった男の予言と陰謀がある一家を翻弄する話。ストーリーやディティールなんかは荒唐無稽なんですが、その馬鹿らしさを自ら人類への皮肉と冷笑によって茶化しています。全体的に筆圧が高くて合わない人にはきついかもしれませんが、ところどころかなり気合の入ったメタファーがありグッときます。凝った表現が好きな人なら楽しめるでしょう。



たとえばキリスト教の説教師が、人類がいかに罰当たりかを演説するシーンはこうです。

ボビー・デントンは、ぎらぎらと愛のこもったまなざしで聴衆を串刺しにし、それを彼ら自身の罪悪の炭火の上で丸焼きにしはじめた。

扇情的な説教が、群衆に罪深さを自覚させたということですが、翻訳とは思えない情感あふれる一文です。このウィットは評価したい。

○○に踊らされているにすぎない

反面、人生のくだらなさ・目的のなさというテーマにはそれほど魅力を感じませんでした。人生をくだらないと思う人々はさまざまな行動に出ます。自分の人生に意味を見出すため宗教にハマるのもそのひとつです。しかし神の倫理に従って行動するのは、天上の見えない何者かを観客とした演劇です。本人や周りの信者にとってはそれでいいのかもしれませんが、傍から見ると「そんなに一生懸命がんばってるけど、お前は一体誰のために演じているんだ?」という痛々しさがあります。
また、人生の目的(それも誰もが納得するような高尚で高級な目的)を求める異星人の話も出てきます。彼らはその哲学的問答を自分たちが作った機械に任せます。

機械はあらゆることをみごとにやってのけたので、とうとう生物たちの最高の目的が何であるかを見つける仕事を仰せつかることになった。機械たちは、生物たちがなにかの目的を持っているとはとうてい考えられないことを、ありのままに報告した。それを聞いて、生物たちはお互いの殺し合いをはじめた。彼らは目的のないものをなによりも憎んでいたからである。やがて彼らは、自分たちが殺し合いさえもあまり上手くないことに気づいた。そこで、その仕事も機械たちに任せることにした。

結局この文明は機械たちに瞬殺されます。
これらの寓話が示すのは、人生に目的はないし、たとえあるとしても、それを自分以外の何かに託すのは滑稽だということです。逆に言えば、それが傍から見たらどんなに低級で滑稽なものでも、人生に意味を見出すことはできるということです。そうやって自分の人生に意味を見出した人は幸福です。誰かの手のひら上で踊らされているにすぎないとしても、どうせなら全力で踊ったほうがいいに決まってます。なんとなれば、価値の根拠は主観だけなんですから。

阿波踊りでわかる「タイタンの妖女

「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々」の世界観で解説します。まず、ほぼ全ての人間が踊らされています。それが釈迦の手のひらでもトラルファマドール星人の手のひらでもいいんですが、とにかく誰かの手のひらの上で踊らされています。国家・文化・社会・宗教・倫理・道徳・科学・本能……などなど、人を踊らせるものは枚挙にいとまがありません。そこで自分が誰かに踊らされているのはムカつくといって踊りをやめる人がでてきます。彼は周りが踊っているのを見物し、おれだけは踊らされていないぞと粋がるのです。周りはみんな「踊る阿呆」だけど、おれだけは特別で違うんだぞ、と見物人としての自分を誇ります。しかし、この見物人は踊り子にとって「なにカッコつけてんの? バカなの?」であり、「見る阿呆」です。
踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊ったほうがお得です。だってただ見てるだけなんて寂しいじゃないですか。踊る阿呆を眺めてニヤニヤするのも楽しいですが、やっぱりみんなと一緒に踊ったほうが手っ取り早くエンジョイできます。

「踊ってみた」という形式の寒さ

長々と講釈をたれましたが、ほとんど機械的に作品テーマを読み取っているだけで、私自身はなんら感銘を受けていません。まあ、そういうふうに心を打つ解釈もできるよなあ、というだけで、実際に読んでいる時はほとんど感動しませんでした。なんとなく古典というだけで深読みしてるだけじゃねーの? と批判されたらぶっちゃけ言い返せません。
そういえば、ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」も乾いた心ですらすらと書きなぐった三文記事です。感動の捏造であり、情操の揶揄であり、情念のパロディです。気まぐれに踊って(踊らされて)感動してみせただけの冗舌です。ニコニコ動画における「踊ってみた」と同程度に寒いと思うんですが、あれはあれでけっこう人気なので、この書評もこっそり需要があるのかもしれません。まさに「誰が得するんだよこの書評」。