社会を擬人化するな――ロバート・ノージック「アナーキー・国家・ユートピア」

「もし国家が存在しなかったなら、国家を発明する必要があっただろうか。国家は必要か。国家は発明されねばならないか」。 この、過激な問いかけから本書はスタートする。
まず国家の役割として治安の維持・防衛があげられる。しかし、こういったサービスの提供は国家の独占事業ではなく、民間軍事会社やセコムだって、似たようなサービスを提供できる。よって無政府状態にあってはいきなり国家のような仕組みができるのではなく、まずは人々を守るサービスが自発的に始まるだろう。ノージックはそのような契約ベースの仕組みを保護協会と名付け、無政府状態では複数の保護協会が乱立するはずだと考えた。
そして、その保護協会は会員数が多ければ多いほど紛争解決機関としての競争力が高まるから、ひとたび優位にたつ保護協会が出てくると、それは競合他社を圧倒し、支配的な保護協会にまで成長する。
とはいえ、この保護協会は会員に対する外部からの侵害に対しては強硬的につっぱねることができるが、会員同士の紛争についてはその調停が難しい。同じ会員の地位を持つ以上、両者をなるべく平等に取り扱わねばならないし、そのようなフェアな保護協会でなければ競合他社に淘汰されてしまう。そこでノージックは、平等な両者同士が共有するべきルールとして次の3つをあげる。

1.自己所有と私有財産の権利は不可侵である(自己所有権私有財産権)
2.正当な所有者の合意を得ずに財産を取得することはできない(暴力の禁止)
3.正当な所有者との合意によって取得した財産は正当な私有財産である(交換と譲渡のルール)


そしてこれを上回る制約を課すのは、正当化できないとノージックは主張する。たとえ、それが社会の正義であってでもだ。

社会の正義

さて、では社会の正義とはなんであろうか。社会なるものが自分の意思でこれが正義だと語ってくれるのだろうか。違う。幾多の場面で、僕たちは社会というものを擬人化し、あたかもそこに人格が宿っているかのように議論する。
しかし、誰も社会とプリクラを取ることはできない。誰も社会と飲みに行くことはできない。なぜなら、社会というのは物理的な、個別具体的な個人として存在しているのではなく、架空のものだからだ。よって、その社会の中身には、自分にとって都合のいいものが押し込めることができる。自分の欲望を、社会の要請だと言い換え、そのためなら他者の権利を制約することすら平気でやってのける人たちはよくいるが、そのような人たちをノージックは正当化しなかった。
なぜか。もし本当にそれが社会の正義なら、つまりそれが「みんなの合意」であるのなら、国家というシステムを使って強制する必要はないからだ。個人同士が交渉することによって、両者が真に必要としているものは契約として合意されるはずだ。仮に相手が間違っていても、それを訂正し、説得するだけの責任を僕たちは負っているはずだ。それらのステップをすべて無視して事を進めてしまう国家は、一人一人の人生にとってはときに害悪だろう。