夜のコント・冬のコント / 筒井康隆

筒井康隆の短編集。この頃の筒井さんが一番好きですね。ほどよく実験的でほどよくドタバタしてます。奇才っぷりがよく分かる本なのでオススメです。以下、気に入った作品を解説。


最後の喫煙者

嫌煙ブームを先取りした社会派SF。喫煙者というだけで差別されまくり人間扱いされなくなるという笑えない話です。しかしテンポのいい文章と爆発的なギャグで腹筋を引き攣らせながら読めてしまいます。

夢の検閲官

精神分析学のパロディ。夢には無意識が現れるといいますが、無意識に潜むものがそのまま出てくるわけではなく歪曲された状態で出てきます。つまり夢には検閲機能があるのです。この機能を擬人化したのが夢の検閲官。ギャグセンスが高く、かなり笑えるんですが、最後にはほろりと泣けます。私は小説で涙腺が緩むなんてことはほぼ皆無なんで、これはかなり凄いですよ。筒井さんの短編では一番完成度が高いと思う名作です。

「聖ジェームス病院」を歌う猫

これは数学の教科書に載せるべき傑作。2次方程式の解の公式を題材にした小説の中で(というかそんな小説がいくつもあるとも思えませんが)、最も実用性が高く、かつ面白い作品。

レトリック騒動

記号論的悪夢。難しいことは分からなくても楽しめます。記号論は「文学部唯野教授」で少しかじっただけなのですが、冒頭を強引に解説するとこうなります。

1.シニフィアンシニフィエは関係的

  • シニフィアン(記号表現)は「空」という文字や、「そら」という音声。
  • シニフィエ(記号内容)は空のイメージや、空という概念、空の意味内容。

これはわかるでしょう。「空」と一口に言っても、それは文字としての「空」であり、下の画像のようなイメージをもった概念です。そして当然それは現実世界に存在する「空」でもあります。 
つまりシニフィアンシニフィエは切っても切り離せないということです。

2.してみれば両者の間に関係も差異も存在せず、「の如し」といった両者を関係付ける語すら存在しない隠喩、換喩、諷喩といったものは存在しないことになる

ここが難解です。つまりシニフィアンシニフィエは一般的に何らかの関係を持っているのだから、ありとあらゆるシニフィアンシニフィエは強固な関係があるはずだ、ということです。「猫」は「猫」という文字でもあり、あの四本足のニャーと鳴く動物でもあるのです。片方を想像したらもう片方も即座に思いつく、両者の間には分かちがたい関係があります。
さて、そういった名詞なら別に問題はありませんが、困るのは隠喩、換喩、諷喩などです。これらのメタファーは直喩のように、「〜のようだ」「〜みたいだ」のように比喩であることを明示しません。それが単なる喩えであることを強調せず、断言してしまうのです。例えば「人生はドラマだ」「政治家は腹黒い」「あいつは飛ぶ鳥を落とす勢いだ」などです。これらの記号表現と記号内容の間にはこれといった関係が存在しません。人生は人生ですし、政治家の内臓が黒いわけではないですし、絶好調な人間の周囲で鳥がばたばたと落ちるということもありません。これらのメタファーは記号内容とは一切関係のない記号表現なのです。
だが待てよ。ありとあらゆるシニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)が関係的ならば、記号内容とは一切関係のない記号表現なんてあるはずがない。たとえそれがメタファーであるにせよ、全ての記号表現は正しく記号内容を伝えてるはずだ。とすれば、隠喩や暗喩などと言ったものは存在せず、メタファーも含めたあらゆる記号表現は現実そのままの事実である。
そんな学説が発表され、それが全世界的に受け入れられた瞬間、世界は一変します。人生は劇的となり、政治家の内臓は真っ黒であることが判明し、絶好調な人間は生粋のバードキラーとなります。
アキレスが亀に追いつけないことを証明してしまったら、本当に世界がそのように変容してしまった、みたいな話です。現実的ではないですが、それゆえに面白い。

のたくり大臣

ネタバレで解説します。某所で公表したところ意外に好評だったので、より精度の高い講評をやってみます。
作品の大まか流れは、会議に出なくてはいけない大臣とその部下が、眠気と闘いながら、のたくるという話です。なぜか彼らは布団を魔法の絨毯の如く、浮遊させることができるようになります。大臣一行はのたくりながら布団で空中飛行を続けます。そしてなんとか会議に出席しようとするのですが、突然ある男に「では、狐をみせてやろう」と言われます。そこで場面が変わり、のたくり大臣の会議相手である大蔵大臣が出てきます。彼の元へのたくり大臣は空中飛行でやってきて、大蔵大臣に向けてこう言います。「では、狐をみせてやろう」。
はっきり言って意味不明です。この作品は何を象徴しているのでしょうか。キーワードは「狐をみせてやろう」です。これは「狐によって化かされたことが明らかになる」=「今までの一連の非常識な事態が一種の夢(幻覚)であることが明らかになる」ということを示しています。
要するに

  • 夢:のたくりながら空中飛行
  • 現実:大臣たちは眠ってしまい夢を見ている(あるいはラリってる)

これで前半についてはすべて説明できます。ところが後半になると幻覚のはずの「のたくり大臣」が現実の存在であるはずの大蔵大臣の元に現われます。はたしてこれは夢か現実か? と読者は戸惑います。
―――と、ここで種明かし。「のたくり大臣」たちが「では、狐をみせてやろう」と言うことで、この情景も現実ではなく夢だということが判明します。
つまり、あれです。朝学校に行かなきゃ行けないときに見る「普通に起きて学校に行っちゃう」夢と一緒。現実でやらなければいけないことを夢の中でやってしまう。その夢の中では、これは現実か夢かはわからない――というより、あいまいになる。でも、それは所詮夢に過ぎないことが最後にはわかります。その最後の種明かしこそが、この作品においては「では、狐を見せてやろう」なのです。
のたくり大臣と大蔵大臣の夢がなぜリンクしているのかと言ったら、2通りの解釈が出来ます

  • 前半はのたくり大臣の夢。後半は大蔵大臣の夢。個別の夢が偶然リンクした
  • すべて大蔵大臣の夢。その中で「これは幻覚だ」と気づくのたくり大臣が登場する

これでこの作品の解釈は終わりです。しかしまだまだ考えるべきことがあります。はたしてこの解釈は妥当なのか、ということです。「ダンシング・ヴァニティ」のエントリでも書きましたが、作品の解釈をめぐる問題は一筋縄ではいきません。例えば

  • のたくり大臣も大蔵大臣も単に狐に化かされた

という怪談なのかもしれません。他には

  • 「狐を見せてやろう」というのは何の暗喩でもなく、そのままの事実だ。実際にどろんと狐に変身したのだ。

という解釈も可能です。それじゃあ意味不明だよ、と困る読者を尻目にこう言ってのけるのです。フハハ!意味などない!意味などないのじゃ!*1
さらに、ある解釈が妥当かどうかを判断できるのはあなただけです。あなただけが解釈の是非を判断する唯一の基準です。私の解釈は、ただ私のみが満足する解釈であって、他の人にも無条件に受け入れられるモノではありません。あなたが解釈したいように解釈するのが、正義です。
とはいえ、こういう解釈もあるよねーと垂れ流すのは自由です。そしてどうせなら読んでて面白い解釈をしたいよねってことです。

*1:筒井さんには実際にこういうセリフのある短編もあります。