死を生きながら イスラエル1993-2003 / D・グロスマン

おぞましい、とすら思った。道徳的に正しい言論の影に隠された、抑圧的な全体主義に。著者はイスラエル在住のユダヤ人で、パレスチナとの血みどろの紛争について次のように語る。「テロは悪だ。しかし武力では報復しても意味がない。和平しか解決策はない」。この見方は圧倒的に正しい。ただし、この正しさは道徳的に擁護できる、という意味での正しさで、生身の人間である私がそれに賛同できるかとはまた別問題だ。

かつてある若いカップルが将来の設計について話してくれたことを、わたしは決して忘れないだろう。結婚して、三人子どもをもつ。二人じゃなくて三人。そうしたら一人死んでも、二人残るから。*1

勘弁してくれ。一人死んでもいいだって? 海外に逃げ出すという方法もあるのに、なぜそこまでして死と隣り合わせに生きようとするのか。きっと自分の子どもを死のリスクに曝してまで、民族の存続とか国家の安泰を守りたいのだろう。個を犠牲にしてでも守りたい全体があるのだろう。
自由主義者ならこう反論する。「僕やあなたの個別具体的な人生はそれ自体が究極の目的であり、他のいかなる目的の手段とも成り下がることはない。僕やあなたの人生を手段として使ってまで為すべきことなど、存在しない」。
しかし、この理想論も彼らの耳には空虚に聞こえるだろう。彼らは何も強制されていない。自らの自由の下で、リスクある生き方を選び取っているのだ。約束の地へとエクソダスしてきたのだから、たとえそこがどれほど危険でもしがみつくつもりなのだ。子どもまで道連れにすることに抵抗感はあるが、子どもは自らの意思を持たない大人の所有物という側面もあるので、外部がとやかく言えた問題ではない。
ここで私とグロスマンの立場を明確にするために、私があそこで生きていけるだろうかを考えてみたい。特定の宗教を持たない私は、すぐさま安全の地へとエクソダスしてしまいそうなので、条件をいくつか考えてみる。たとえば、家族や友人がイスラエルで暮らしており、こんなところからは早く逃げようと説得しても頑固に反対されてしまう状況などどうだろう。しぶしぶ私もこの地で生きることになるのではないか。
しかし、私のスタンスはあくまでも「こんな危険な場所で生きていけるか」というものなので、周りを説得し続けるだろう。海外旅行や留学を積極的に行い、「いかに国外が安全でイスラエルが危険か」を実証し続けるだろう。また、海外でも生きていけるようなスキルを身につけることに必死になるはずだ。金融資産が1億円ほどあれば投資だけで食っていけるようになるので、若いころ外資系で働いてさっさとアーリー・リタイアメントするのでもいい。自らもそうしたライフスタイルでやってくし、周りにもそれを広める。経済的にイスラエルという国家から独立すれば、選択の自由はかなり増える。
もしかしたらもっと深くコミットするかもしれない。たとえばスティーヴン・スピルバーグの「シンドラーのリスト」のように、海外でユダヤ人が働くビジネスを立ち上げるのだ。営利企業でもいいし、ソーシャルビジネスでもいい。とにかく、海外でも生きていけるというチャンスを与える。
グロスマンのように、道徳的に正しい主張をして、死のリスクにおびえながら暮らすのもいいだろう。それも自由だ。しかし、本当に自分の人生を大切だと思うなら、本当に家族や友人の安全を願うなら、具体的な手段を講じたほうが手っ取り早い。それはシンドラーのように、おかしい現状を変えようともせず、ひたすら命を救うことだけに集中した、ある意味かっこ悪いことだ。しかし、それでもシンドラーのような生き方を私は支持する。たとえそれで国家の存続が危うくなっても、別にかまわない。

兄弟たちよ。君は怪物の発する悪臭のなかで窒息するのか? 窓を打ち破り、あの大空へ飛べ!
大いなる魂たちのために、大地はいまもなお開かれている。一人生きる者たちや、孤独な二人のために、誰も知らない土地がいまもなお残されている。そこには静謐な海のかおりが漂うだろう。
国家が終わるところ――。そこでこそ、かけがえのない者たちの歌が、ただ一回の、ふたたび奏でられることのない旋律(メロディ)がはじまる。
フリードリッヒ・ニーチェツァラトゥストラはかく語りき

*1:同書44p