思考停止社会 / 郷原信郎

アメリカの陪審員制が「12人の怒れる男」だとしたら、日本の裁判員制は「3人の水戸黄門と、6人の助さん・格さん」だ。お上は裁判員に「君こそ水戸黄門の立場なのだからしっかりと判断しなさい」と言う。しかし、お上から押し付けられている時点で、そのような自主性は期待すべくもない。結局、国民の多くは「望んでもいないのになんでこんな面倒くさいことをしなくちゃいけないんだ。まあ、その道のプロの裁判官がいるからなんとかなるか」と思っている。こうして自主的に判断する裁判官と、その判断に乗っかろうとする裁判員という構図ができる。
こんな状況では、裁判官が裁判員を攻略することなど簡単だろう。プロの水戸黄門であることを自己紹介すれば、それで足りる。裁判員はしょせん一回ぽっきりの水戸黄門なので、どうしてもプロの水戸黄門の自覚をもてない。もしかしたら間違った判断をしてしまうかもしれない、という不安があるので、堂々と「いや、私もこの裁判に限りプロの水戸黄門なのですよ。ハハ」などと開き直れない。その自信の無さが、権威に従順な態度を生む。「いやあ、難しい事件ですなあ。しかも死刑・無期を法定刑に含む重大事件ときた。こんなの真面目に判断しろって言われても荷が重過ぎますって」。これが国民の本音だ。人を裁く、ましてや死刑にするなどといった非日常の極限状態に真正面から取り組むなんて億劫で億劫でしかたがないのだ。
そうした非日常の事件は、自分たち一般市民には関係ないはずだった。どこからともなく黄門様が現れて印籠を振りかざしたら、ははーっと頭を下げていればよかった。何も考える必要は無かった。それをいきなり「今日から君も水戸黄門だ」と言われても困る。印籠を渡されても使い方がわからない。横にプロの水戸黄門がいるならなおさらだ。結局、水戸黄門に判断を任せっぱなしにする、助さん・格さんのポジションに安住することになる。
この問題の多い裁判員制が導入された経緯は、官民で裁判員制の導入目的が違ったことにある。官である裁判所・検察は「現状の刑事裁判に問題は無いが、国民の司法への理解・信頼を増す必要がある」と考えている。要するにプロの水戸黄門の仕事っぷりを間近で見せてやり「やっぱ黄門様すごい。黄門様にまかせておけば安心だ!」と思わせるのが狙いだ。また、その黄門裁きには一応市民の声も混じっているわけで、市民側としてはますますけちをつけづらくなる。
一方、民である日弁連は「現状の刑事裁判には問題多い。判事と検事の人事交流が行われていること、裁判官と公判担当の検察官とが親密な関係にあること、密室での取調べでつくられた供述調書による事実認定が行われていることなどだ。市民の参加により、これらを改善すべきだ」と考えている。だからより民主的な陪審員制の導入のほうに積極的だったが、結局妥協が図られて裁判員制で落ち着くことになった。
なぜこうも目的の異なる両者が妥協してしまったのか。それは両者とも「国民の司法参加は無いよりあった方がいい」という点で一致していたからだ。その結果、具体的な中身をよく議論することもないまま「司法参加が進むんだからとりあえずやってみればいい」というふうに、国民の司法参加それ自体が自己目的化してしまった。そもそも国民の司法参加は、「お上は信用できない。どうせ裁かれるなら自分たち市民に任せたい」という、国家権力への不信から来るものだ。お上にたて突くなどもってのほかと思考停止している日本のような国では必要ない。
しかもアメリカでさえ陪審員制を選択する被告人は、5.2%とごくごく少数。 やはりアメリカ人も市民よりもプロの水戸黄門を信頼しているのだ。日本の裁判員制は、被告人に選択権はないので「プロの水戸黄門に裁かれる権利」がない。この権利の侵害は早急に是正されるべきである。が、現状ではとりあえずプロの水戸黄門が審議で主導権を握り、実質的な「プロの水戸黄門による裁き」を実現する以外にないだろう。しかしこれはかなり難しい。たしかに裁判員は助さん・格さんに徹してくれるかもしれないが、裁判全体が助さん・格さん用にカスタマイズされているので、最低限必要な審理期間の数分の一程度の時間しかない。これではいくらプロでもまともな判断は下せない。