裁判員の教科書 / 橋爪大三郎

裁判員になるかもしれない普通の市民に向けて書かれた本。個人的には何を当たり前のことを言ってるのか、という気持ちで読んでしまった。「刑事裁判で裁かれるのは検察官の主張である」などと言われても、「立証責任は何かを主張する側にある」というディベートの基本そのままなので、で?っていう感想。むしろ「裁判といったら被告人を裁くものだと思っていたので目から鱗が落ちました」といった書評が出てくることに驚きである。
やはり有罪率99%の日本では、起訴された被告人は悪いヤツに決まっている、というバイアスがあるんだろうな。だから被告人のほうに、「自分が無罪である」ことの立証を求めるような、アンフェアな感覚を平気で持っているのだろう。一般的に言って、「何かを無いということ」の証明は「何かを有るということ」の証明よりもはるかに難しいのに。
たとえば「悪魔はいるかいないか」といった議論をしてみよう。悪魔がいるということの証明は目のまえにそれっぽいものを出せばそれで足りるが、悪魔がいないことの証明は4億9千万平方kmのこの地表すべての場所においてそれがいないことを示さなくてはいけない。いや、地球だけでなく、銀河系レベルでも調査しなくてはいけないだろう。現在だけでなくて過去や未来においても悪魔の不在をチェックしなくてはいけないだろう。無理である。
というわけで「何かを無いということ」を証明させるのはゲームとして不公平なのだ。あなたも悪魔の不在を証明しろと言われたら、こんなクソゲーやってられるかと投げ出すだろう。だから「悪魔はいるかいないか」という話になったら、悪魔はいるよ派が悪魔の存在証明をしなくてはならないのだ。けっして悪魔はいないよ派に悪魔の不在の立証責任を課してはならない。
まったく同じことが「被告人は罪を犯したか犯してないか」という裁判にもあてはまる。裁判員は、被告人は有罪だよ派の主張が通っているかだけをチェックすればいい。彼らがその立証に失敗したら、そのゲームは自動的に彼らの敗北なのだ。


「え? 検察官が立証ミスっただけでしょ。それなのになんで自動的に被告人が勝って無罪になんの?」


あなた……『覚悟して来てる人』……ですよね。人に「悪魔の不在証明」の立証責任を負わそうとするって事は、 逆に「悪魔の不在証明」の立証責任を負わされるかもしれないという危険を、 常に『覚悟して来ている人』ってわけですよね……。*1

*1:元ネタがわからない人はいますぐJOJOを読むんだ!