政局から政策へ / 飯尾潤

入学祝に親戚の伯母から宝くじを3000円分もらったことがある。当時の私は「よりにもよって宝くじか」と落胆したものだ。宝くじは手数料率50%超というほとんど金融詐欺みたいな商品だからだ。1000円賭けた瞬間に胴元に500円分徴収され、参加者は残りの500円を分け合うのだから、どう転んでも割に合わない。同じギャンブルなら競馬は手数料率25%なのでまだ良心的だ。馬券を買ってきてくれたほうがまだマシだ。いや、もういっそのこと3000円分現金でもらいたかった。空気読めないプレゼントよりもキャッシュのほうがうれしいということはままあることだ。
さて、空気が読めないおじさん/おばさんという点では、政治家も官僚もさして変わらない。空気を読むにはニッポン村は大きすぎるのだ。これがお互い顔の知れている我らがミクリヤ村なら話は違う。今年の御厨先生への誕生日プレゼントは万年筆だったが、これが3000円のキャッシュだったら興ざめもいいところだった。このように、狭いコミュニティの中では、空気を読んで適切なプレゼントをすることが可能なのである(もちろんdaen0_0村のように失敗する例もある)。*1
だが、これがニッポン村という巨大コミュニティではどうだろうか。例えば国民全員誕生日に万年筆をもらえるという政策はどうだろうか。おそらく多くの国民はそんな空気読めないプレゼントよりも、その分だけ減税してほしいと思うだろう。空気読めないくせにでしゃばるなと怒り出す人もいるだろう。
自由主義の本質は、おそらくこの点にある。私たちは根本的に無知な存在で、相手がどんなニーズをもっているかわからないのだ。だからこそ、でしゃばらずに相手の裁量に任すことが必要なのだ。自由それ自体が大切なのではなく、私たちは無知だから相手の自由裁量に任せるしかないのである。例外的に狭いコミュニティ内ではお互いに空気を読みあうことが可能であるが、それが国家規模になるとニーズを汲んであげることは絶望的になる。
だが、いまだに近代的エリート主義を信じている人がいる。頭の良い人間が知恵を絞って、その結果をトップダウンに推し進めればみんなのニーズを満たせると思っている人がいる。飯尾潤もこの1人だろう。飯尾は、教育問題については「政府が知恵を絞って、政策的に対応しなければ」*2  いけないとしているし、地域振興券については「究極のばらまき政策であった」*3  と批判している。
そもそも教育問題は何が正解かもわからないのでトップダウンに決めることはできない。むしろフィンランドのように各学校の校長が自由にカリキュラムを決められるよう裁量を与えてはどうだろうか。それぞれの学校が試行錯誤していけば、下手な鉄砲も数打てば当たるで、次世代のロールモデルがでてくるだろうし、競争原理の中でそのロールモデルを多くの学校が真似すれば大きな改革が達成できる。また地方分権と同じように、異なるそれぞれの現場にフィットした教育というのも出てくるだろう。(なお、フィンランドは学習到達度調査(PISA)では世界一。
ばらまき政策も個別の産業に集中して行われるならともかく、国民全体に広く還元されるなら一種の減税なので、「小さな政府」という観点からは好ましい。今回の定額給付金もばらまきだと批判され、エコや医療などの個別産業への投資に使うべきだという意見もあった。だが本当に採算の取れる投資ならすでに民間がやっているので、政府がでしゃばる意味がない。国民にとっては、こうした空気読めないプレゼントよりも現金のほうがありがたい。
「将来の見通しが不透明な時代には、不確実性の中で決断せざるをえなくなる。そして、それは政治家の仕事である。」*4  と飯尾は主張するが、これは政治家が空気読めないおじさん/おばさんであること完全に失念してしまっている。何が正解かわからないからこそ、トップダウンで決めるのではなく、個々の裁量にゆだねることが必要なのだ。だからこその地方分権であるし、規制緩和による市場原理導入なのである。
思えば、90年代までのニッポン村は特殊な状況にあった。高度経済成長の中で、年々拡大するパイを大判振る舞いで分け与えていれば「調整型民主主義」だと褒められた。政府からのプレゼント(公共事業)も基礎インフラが中心だったのでみんなから喜ばれた。自民党は実にうまく空気を読んできた。だが、それはあくまでも特殊な状況だからこそ可能だったのだ。過去の幸運は忘れて、まずは自分たちの無知を認めることから始めてはどうだろうか。

*1:本稿はもともと御厨貴のゼミで発表したペーパー。

*2:同書98p

*3:同書146p

*4:同書244p