百鬼夜行 陰 / 京極夏彦

妖怪というのは狂気から生まれる妄念である。というのが京極夏彦の考え方のようだ。僕も賛成である。知り合いに統合失調症の人で、無数の赤ちゃんが足下から身体をよじ上ってくるという幻覚に苦しんでいる人がいるが、これなど時代が時代ならば「妖怪に憑かれた」状態と言えよう。いってみれば妄想の類なのであるが、本人にとってはリアリティのある現実であり、本作の「川赤子」のように劇的なインパクトをもって生活を浸食するのだ。
しかし、本作を読んで「妖怪」と「妖精」の違いは何であろうかと考えさせられた。忌々しい妖怪と、見るものを和ませる妖精は、どちらも本質的に異物である。そんなものは日常生活にいてはならないものなのだ。しかし、そうした異物はあるときはおぞましい怪談となり、またあるときはメルヘンなファンタジーとなる。これは不思議だ。
話は変わるがドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」には、悪魔が見えるという老人が出てくる。この人は普段ほとんど誰とも話すことない変人なのだが、その行動はむしろ崇高なものとして高く評価されている。近代社会では狂気は、異常であり排除すべき悪なのであるが、かつての共同体において狂気は聖なるものであったのだ。他にもリザヴェータ・スメルジャーシチャヤという例が出てくる。彼女も、今なら単なる精神障害者なのだが、当時の人間にとっては「神がかり」な存在であり、それ相応に扱わなければならないという暗黙の了解があった。
僕は何も狂気が再び神秘性を獲得するようになるとか、そうなるべきだと言いたいわけではない。むしろ狂気は単なる脳内の現象として、無味乾燥なやり方で解明されていくのだろうし、解明されるべきだ。精神障害は、あくまでも障害であり、神秘などではない。だが現状の医療技術ではそこまでのレベルに達していないので、精神障害者は障害を神秘へと転換することもできず、かといって抜本的に治療も期待できない、非常に難儀な立場に置かれている。彼ら/彼女らが少しでも楽に生きるためには、狂気という症状を「妖怪のしわざ」として神秘的に扱い、社会の方でもそれを許容するような寛容な体制が必要なのかもしれない。
「なんか赤ちゃんが20人ほどよじ登ってくるのですが」「妖怪です!妖怪のしわざです!」「そうかあ、妖怪なら仕方ないな」 ってそんなふうになるか! という気もするがつっこむのは野暮ってものだ。「あなたは異常です」などと認定を受けるよりは妖怪に責任転嫁したほうが楽だろう。よくわからないことはなんでも妖怪のせいにしてしまえばいい。脱呪術化なんてしなくていい。ほら、それに妖怪とか見えない敵とかみんな好きだろ?