春の雪―豊饒の海・第一巻 / 三島由紀夫

かつてこれほど僕をにやにやさせた小説があっただろうか。個人的にはドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を完全に超えた。成金の侯爵の息子で優雅な美少年を地で行く清顕と、大審院判事の息子でとにかく有用な人間になろうとしている本多の物語。これだけ聞くと二人の友情がメインテーマかなと思われるかもしれないが、そんな凡庸なくくりでは収まらないものがあります。とくに清顕のぼんぼんっぷりというか、優美であろうとするあまりに愚かさすらも厭わない様は圧巻。本多も世界とか人生とか平気で語っちゃう法曹志望の学生でして、何か他人事とは思えません。というか僕の周りには本多のような連中がけっこういまして、読んでいて面映ゆいというか、にやにや笑いが止まりませんでした。

唯識論と唯物論

この小説を勧めたくれた友人は、この作品は唯識論と唯物論の話なのだと言っていました。感情のままに生きようとする清顕は、法と論理の世界に生きようとする本多からすれば、幼稚な愚か者にも見えます。しかし、清顕は清顕で、今この瞬間を生を典雅に全うしようとしており、その清顕の主観の中では、世界はそれなりに輝いているわけです。たとえ唯物論的世界観からすると、人生を台無しにして刹那の快楽に浸る倒錯者であっても。
唯物論者は「僕と世界」というような世界認識を持っており、あくまでも自己は世界の中に這いつくばる一個の個体でしかありません。だからこそその世界の中で自分の地位をいかにあげるかが重要になるわけです。対して、唯識論者は「僕=世界」というような世界認識を持っています。世界は自己が認識したものであり、おのれ以外はそれこそ有象無象、どうでもいいわけです。だから清顕のように地位や名誉もかなぐり捨てて色恋沙汰にうつつを抜かせるのです。
どちらが善い悪いということではありませんが、まあ清顕的生も面白いですね。僕個人は本多的生を生きてますが。唯識論者は僕の知る限り一人しか周囲にいませんね。

超絶技巧の文体

文体すごいです。装飾過多ですが、ハマります。三島しか切り取っていないであろう瞬間、三島しか書いてこなかったであろう表現というものがあり、差別化ができています。

飯沼はそういう真剣な祈りの最中に、体が熱していくるにつれて、凛とした朝風をはらむ袴のなかで、急に股間が勃然とするのを感じることがあった。彼は社の床下から箒をとり出し、狂気のようにそこらを掃いて廻った。*1

ある書生が煩悩を振り払って掃除をするシーンなのですが、「狂気のようにそこらを掃いて廻った」って文章がいいですねぇ。「一心不乱に」じゃなくて「狂気のように」というあたりにセンスを感じます。
また「勃然」という言葉も初めて知りました。なんだよ「勃然」て。表現が紳士的すぎるだろ。勃然戦隊ボツゼンジャーを結成して日曜の朝に放送しても許されそうですよね。

*1:94p