筒井康隆の断筆は何を意味するのか

もはや忘れ去られた感のある筒井康隆の断筆事件ですが、語っておきます。この問題をスルーするのはありとあらゆる言論にとって致命的なんじゃないかと思いますよ。ことのはじまりは「無人警察」(「にぎやかな未来」収録)が国語の教科書に採用されたことでした。この短編は近未来を舞台にして管理社会を皮肉るという初期の筒井康隆によくあるパターンの話なんですが、文章中にてんかんをもつ人々への差別的な表現があるとして日本てんかん協会に文句を言われます。


日本てんかん協会の抗議

少し長くなりますが、その言い分を引用しましょう。角川書店が日本てんかん協会の声明文を要約したものであり、日本てんかん協会の声明そのものではありません。しかし内容に齟齬が見受けられない、むしろ要約された分論旨が明確になっているのでこちらのほうを採択しました。


「無人警察」におけるてんかんに関して記述した部分は次のとおりです。(中略)


四つ辻まで来て、わたしはふと、街角の街路樹にもたれるようにして立っている交通巡査に目をとめた。もちろん、ロボットである。小型の電子頭脳のほかに、速度検査機、アルコール摂取量探知機、脳波測定機なども内蔵している。歩行者がほとんどないから、この巡査ロボットは、車の交通違反を発見する機能だけを備えている。速度検査機は速度違反、アルコール摂取量探知機は飲酒運転を取り締まるための装置だ。また、 Aてんかんをおこすおそれのある者が運転していると危険だから、脳波測定器で運転者の脳波を検査する。異常波を出している者は、発作をおこす前に病院へ収容されるのである。わたしがそのロボット巡査に目をとめた理由は、いつも街頭で見るそれと、少し違っていたからだった。普通鋼鉄製のボディーがむき出しなのに、このロボットは服を着ていた。そのえボディーも大きく、頭上にはアンテナが8本も付いていた。「新しいタイプのロボットだろうか?」そう思っててよく見直し、わたしはすぐに昨夜見たマイクロ・テレニュースを思い出した。今日は、新型の巡査ロボットが、試験的に、都市の2、3の街頭にお目見えする日だったのである。こいつは、それに違いなかった。「妙な格好だな。」
じろじろと見つめていると、ロボットのはうでも、金属的なきしんだ音を立てて、ぐるりとわたしのはうへ、その頭を向け直した。たとえロボットでも、巡査ににらみ返されるというのは、あんまりいい気持ちではない。「そうだ。この新型は、歩行者の取り締まりもできるのだっけ。」
わたしはまた思い出した。でも、B わたしはてんかんでないはずだし、もちろん酒も飲んでいない。何も悪いことをした覚えもないのだ。このロボットは何か悪いことをした人間が、自分の罪を気にしていると、その思考波が乱れるから、それをいちはやくキャッチして、そいつを警察へ連れてゆくという話だった。連れてゆくといっても、手錠を掛けるわけでもなければ、腕ずくで引っ張ってゆくわけでもない。ただ、どこまでもついてくるのだ。(以下略)


これに対する、7月10日付声明文は次のとおりです。

  1. 青色部Aを引用して、「てんかんをもつ人々の人権を無視した表現」であり、「てんかんは取り締まりの対象としてのみ扱われ、医学や福祉の対象として考えられていない。
  2. 青色部Bを引用して、「てんかんが悪いことの一つのように書かれている」。
  3. アメリカ、イギリス、デンマーク、スウェーデン、ドイツ等の諸国でのてんかんをもつ人々の自動車運転に触れ、「国によって異なるものの、6カ月〜3年間発作が抑制されていれば、自動車の運転が認められる」ようになっており、「こうした世界の趨勢に逆行し、(中略)てんかんに対すると差別や偏見を助長する」ものである。
  4. 「てんかんと脳波の関係について医学的にも誤った説明」であるとし、「てんかん発作の形態はきわめて多様であり、教科書が注記で述べている『発作のとき、身体のけいれん、意識喪失などの症状が現れる病気』というのは、てんかん発作の一都分にすぎない」としている。
  5. 「教科書として使用した場合、そこにいるてんかんをもつ高校生や、近親者にてんかんをもつ人がいる高校生は、どのような思いで授業に臨まねばならないことになるのか」考えてほしい。

社団法人日本てんかん協会機関誌「波」第17巻9号 1993年9月掲載

言いがかりに近い抗議の内容

結論から言いますが、この主張には納得できません。好きな作家をかばう気持ちもあるかもしれませんが、それでもやっぱり説得力に欠ける論旨だと思います。それぞれ反論していきます。

1について。

取締りというよりも健康診断の一種であるから、人権無視ではなくむしろ人権擁護でしょう。誰だって出血多量で今にも意識を失いそうな人がいたら「運転はやめとけ」「頼むから病院にいってくれ」と言うはずです。外傷ではありませんが、てんかんも同じく病気なのですからちゃんとケアしてくれる分、当事者にやさしい制度なのではないでしょうか。無理して健康な人と同じように扱おうとするのは、健康ぶりたい人の自尊心を満足させるだけで、本人にとっても周りにとっても実害がある場合があります。

2について。

そう読むこともできますが、逆に「てんかんを全く悪いことと思っていない」人ならそうは読まないでしょう。一体誰がてんかんを悪いことだと思っているんですかね。と書くと角が立つので、あんまり言いたくはないんですが、つまりそういうことです。この程度で規制してしまうと、解釈の自由(誤読の自由も含め)が制限されることになり、歯止めが利かなくなります。

3について。

条件付けであるものの世界的にはてんかんを持っていても運転できるようになっている、だからてんかんというだけで運転できないのはおかしいという主張はこの小説とは関係ありません。だってその条件をクリアしているかどうか(脳波が異常波を出しているかどうか)をわざわざその場で機械がチェックするという設定なんですから。機械にチェックして正常だというサインが出ても偏見や差別によって運転できなくなるというのなら、たしかに問題でしょうが、この小説ではそういう事態は起きていません。とりあえず落ち着いてください。

4について。

しかしその「医学的にも誤った」測定法が一般に普及している以上、そういう社会システムの欠点も書いたほうがいいでしょう。そりゃあ世の中が実際に誰にとっても素晴らしいメルヘンなお花畑なら、「医学的にも誤った」制度が存続しているのはおかしいでしょう。しかし、現実にはそういう不備も存在するわけですし、それをなかったことにしてあたかも理想社会がすでに実現しているかのように見せかけるのは間違った努力です。

5について。

「生徒の中にもてんかんを持つ人がいる。そのことを考えてほしい」。そうですか。しかしその実やってることといったら「考えてほしい」なんて生易しいリクエストではなく、てんかん持ちにこの小説はすっげー気まずいんだよ! こんなの教科書に載せんな! 空気読め! という無言の圧力です。要するに思考停止を要請しているのです。むしろこういう気まずい小説を教室の中にぶちこむことではじめて学生に考えるモチベーションが生まれるでしょう。
てんかんをあたかも悪いことのように感じてしまうその空気を、客観的に見つめるいい機会です。その空気を意識の脇において、あたかも無かったかのようにふるまい、もしそうした火種となりそうなものを見つけても、その作品のほうを葬ってしまえばいいというのは不健全です。

言論弾圧の始まり?

極論ですが、そもそも不謹慎だ・科学的におかしいという批判は的外れです。そうした不健全な社会的風潮を書くのがこの小説の狙いだからです。だって管理社会に飼いならされることへの抵抗感を書いた小説なんですよ? その社会システムはいろいろとおかしいことをやってて当然なんです。
その作中の社会の負の側面をなかったことにするというのは、現実の社会がいかに管理社会であるかを浮き彫りにしています。たとえそれがマイノリティーを守るという善意から来たものでも、結局は「臭いものに蓋」の要領で人間をコントロールしているだけです。触れるとめんどくさい問題だから「触らぬ神にたたりなし」とばかりに問題を先送りしているだけです。
フィクションですらも都合が悪かったら削除してしまえとは、その言論弾圧っぷりは恐れ入ります。この新手の焚書にたいして作家は断固として立ち向かうべきですし、実際に「断筆」というセンセーショナルなイベントで世間に一石を投じた筒井康隆はなかなか上手く戦ったと思います。

「なかったこと」にできないもの

結局、「無人警察」は教科書から削除されました。それを言論弾圧の始まりと捉えるか、差別撤廃の第一歩と捉えるかどうかは人それぞれでしょう。しかし私にはこれが、日本てんかん協会と「臭いものに蓋」で全てを解決しようとする社会的風潮の勝利だと感じました。たしかに彼らとて社会の一員であり、その利害と感情を優先すべきだというのはもっともです。
とはいえ彼らが臭いものというレッテルを貼った「悪」は消えたわけではありません。ただ見えないところに沈殿しただけです。だからこれは一見善良な市民の勝利ですが、その実態は単なる勝利宣言であり、むしろ選手宣誓に近いなにかです。その偽りの成功で満足していては絶対に解決しない問題が依然として残っています。