テロルの決算 / 沢木耕太郎

右翼のテロリストと、彼に殺された政治家を書くノンフィクション。この二人のうちどちらの側に立つかで読者の持つ印象はだいぶ変わってくるでしょう。僕は殺された浅沼稲次郎の側に立ちます。というかテロリスト山口二矢の側に立ちたくないんですね。人殺しいかんよ君とか、共産化の防止という大義があったとしても殺人までやっちゃったら右翼のイメージ下がって不味いんじゃねとか、まあいろいろ理由はあります。しかし一番僕が鼻についたのは山口の持つ、「自分も死ぬ覚悟があったのだから人を殺してもよいのだ」という甘えた思想です。
たしかに決死の覚悟で敵に挑む武士は美しく見えます。「大義」のために死んだ特攻隊の青年のエピソードは感動的ですらあります。しかし、自分の死を覚悟しようがしまいが、殺人は被害者にとっては迷惑なだけなのです。自殺する覚悟でテロを実行した、そして実際に捕まった後になって自殺した、それらは加害者本人にとってたしかに大切なことだったのでしょう。しかし、加害者がそうした高潔な自意識を満足させ「完璧な瞬間」を生きているまさにその時、被害者には計り知れない迷惑がかかっているのです。加害者の潔癖ともいえる態度は、実際に被害を受けたことのない第三者にとっては美しく見えるのかもしれません。そうした姿はある種のエンタテイメントとして人々の心に響くでしょう。ですが、いつ被害者になるかもわからない身としては、傍観者としてのん気に感動する気になれず、相手の迷惑も考えずひたすら自らの独善的な自意識に従って動く加害者を恐ろしく思うのです。
そもそも僕は山口が思想的・戦略的につきつめた結果、テロに行き着いたようには読めませんでした。むしろ「何か大きな事をしたい」と漠然と考えるだけで、具体的な戦略が何一つ浮かばずくすぶっているという、ありがちな若者像が浮かびます。その若者にはたまたま自分たちを敵視する左翼という敵がおり、たまたま闘う場所にことかかない環境があったのです。そうした状況にある山口にとってはテロという方法は、「敵と戦って死ぬ」という最高に自意識を満足させてくれる物語を与えてくれました。山口にとってはその劇的なストーリーこそが本当に大事で、彼のテロという行為にたいしてイデオロギーという観点から意味づけをするのはピントはずれだと思います。(村上龍「半島を出よ」はこの辺の描写がとても誠実でよかったです。)
イスラム過激派のテロの実行犯も、経済格差にあえぐ貧困層というわけではなく、むしろ欧米の文化にある程度ふれた後それらに反感を持つ富裕層だと聞きます。 南北対立とか、資本主義と社会主義の対立だとかで物を考えるのでは、テロが起こるメカニズムを見落としてしまうのではないでしょうか。自意識を満足させてくれる物語には人を動かす力があります。そしてその物語が暴力を容認するとき、テロは起こります(実際は、暴力を容認するために物語がでっち挙げられたりもするので、この構図は単純すぎるのですが)。
自意識を満足させるのはかまいませんが、そのために他人を犠牲にしなくてはいけないのは物語として不健全です。結局はwin-loseの関係に陥ってしまい、相手を満足させることで企画を成功させ自分も満足するというようなwin-winの関係が作れないからです。
こうしてみると僕は山口の自己中心的で独りよがりな部分、つまり「私」の部分が嫌いなようです。対照的に浅沼は常に周りとの調整を図り、強く自己を主張して相手を傷つけるということをしない人間でした。つまり円滑な関係のために「私」を抑制する強さが浅沼にはあったのです。「私」を抑制すればそれでいいというわけではもちろんありませんが、浅沼の姿勢にはなんとかしてwin-winの関係を築きたいという建設的な意志を感じます。この点は、僕が積極的に浅沼の側に立ちたい理由です。