人類はどこへ行くのか (興亡の世界史)

「歴史とは、合意の上に成り立つ作り話以外の何物でもない」というのはナポレオンの名言だが、これほど歴史の核心をついた言葉を僕は知らない。なぜ歴史は作り話にならざるをえないのか。複雑系の研究者である金子邦彦は科学についてこう述べる。 「世界の多様な状態をすべて受け取って情報処理することは有限の我々が有限時間で行うことは当然無理だから、何らかの偏見を持って世界を捉えることになる」と。全ての情報を記述することができない以上、過去の出来事は何らかの偏見を通して語られることになる。これが歴史だ。
こうした意見に反対する立場もあるだろう。歴史とは過去に実際に何が起きたかを探る過程であり、真理を探求することが目的なのだという意見もあるだろう。しかし、有限の能力と有限の時間しかない我々に「真理」なるものが果たして手が届くだろうか。「これぞ世界の本質だ」「これぞ歴史のエッセンスだ」そう言うのは容易いが、結局は他の偏見よりもいく分マシな偏見を声高に掲げるだけになりはしないか。歴史に「偏見の少なさ」を求めることも必要であるが、それ以上に必要なのは「偏見のパフォーマンス」ではないだろうか。
具体例を出そう。僕の出身地である北海道の日高はアイヌがたくさんいる地域である。この地には日本人(和人)がアイヌを侵略したという「歴史」があるのだから、日本人とアイヌの間で何らかの不和があってもよさそうだ。アイヌへの差別があるのではないかという不安ももっともである。しかし、僕が13歳まで育った日高において、アイヌへの差別なんて見たこともなかったし、血塗られた「歴史」が何らかのインパクトを持ったことは一度もなかった。
僕の実家がある門別町(現・日高町)は、アイヌ語のモン・ペッ(大きい沢)が由来だと聞いても「へえ」と思っただけで「日本語がアイヌ語を文化的に侵略した」なんてことは思わなかった。またアイヌのリーダーであったシャクシャインが、和睦の酒宴の席で日本人に騙されて殺された話を聞いても「日本人として罪深く感じた」なんてことは全くなく、どこぞの戦国武将が姦計に陥ったのと同程度の興味しかひかなかった。
結局、現代を生きる大多数にとってはアイヌの「歴史」なぞどうでもいいのだ。なぜならそんな「歴史」にこだわっても自分の利益にならないからだ。しかしアイヌにとってはこの「歴史」にいつまでも拘泥していたほうが政府からの援助も得られてゴネ得だし、アイヌ文化が立派な観光産業になっているため「歴史」にこだわることはそれなりのメリットがある。*1
過去の「歴史」が民族的な対立を生むというが、それは違うのではないかと思う。過去の対立なぞ本当はどうでもいいのだ。しかし現在の現実に利害関係の対立や感情の行き違いを抱えている場合は話は別だ。その対立の当事者は自分たちの立場を正当化するため、これは「歴史」的な対立なのだというかもしれない。「歴史」的に向こうが悪いという主張するのは攻撃の手段としては有効だ。(その主張の強さは、対立の度合いによって変わる)。
しかし同じような対立の「歴史」を抱えていたとしても、現在の現実において利害対立や感情の対立がない場合、そもそも人々に争うインセンティヴがない。「歴史」はただの昔話として退屈に語り継がれるだけだ。そう、日高におけるアイヌのように。
松田素二は、和解(Reconciliation)においては真実は二種類あるという。ひとつは顕微鏡型の真実であり、これは客観的で検証可能な事実、文書化され証明されるような事実がみちびきだす真実である。もうひとつは対話型の真実であり、これは社会的に形成され、相互作用や対話、討論を通じて形成される経験がみちびきだす真実である。対話型の真実のほうが顕微鏡型の真実よりも偏見に満ち溢れているに違いない。しかしその偏見は顕微鏡型の真実よりも「役に立つ」のだ。多くのステイクホルダーが納得して得た合意は、たとえ偏見に凝り固まっていようとも、対立を避けるには十分である。歴史とはそうした合意を探るための素材であり、合意そのものである。

*1:傲慢な日本人がアイヌを差別していると誤解しないでいただきたい。アイヌへの差別意識は全くないと自負しているし、むしろその独特の文化を素朴に「カッコイイ」とすら思っている。こんなことを言うとサイードにぶん殴られそうだが。