自由という服従 / 数土直紀

著者のいう「自由」とはルールに縛られずに野方図にやることであり、ルールのもとで合理的に動くことは「服従」だそうである。しかし、この定義は明らかに一般的でない。ルールに縛られず野方図にやることは「混沌」であり、ルールのもとで合理的に動くことは、それが選択の自由のもとで行われる以上は、「自律」と呼ぶべきであろう。
たとえば、将棋の初心者間における最強の戦術が「棒銀戦法」で、みんなこればっかり使うからといって、「戦法は自由なはずなのになんでみんな棒銀なんだ? これは、自由という服従だ!」とか言う人がいたらちょっと変だろう。
そもそも、自由主義者(自由な社会にすむ人)はみんな自由な人生を送っている、少なくとも目指している、というのが誤解だ。古典的自由主義リバタリアニズム)というものは政策上の立場をいっているだけで、個人の人生とか内面とかいった問題には基本的にノータッチだと思う。
実際、自由大好き人間として定評のある僕だって、真っ白なキャンパスを縦横無尽に駆け巡っているような自由な生を生きてはいない。むしろ塗り絵職人に近い。個人の人生は、運命とも呼べるような抗いがたい環境の中で、ただできることをその枠の中でなしとげていく、なにかそんな作業だ。そりゃ、自己の利益を最大かする観点からはそんな枠などないほうがいい。無制限の白いキャンパスを自由に書き連ねていく軌跡。そうだとしたら、枠などない。ただ現実にはこの軌跡はもう長いことのたくりまわっていて、もうこれ以上書き込めるスペースは無さそうなのだ。できることといえば、その軌跡と軌跡の間にほんのりと濃淡をつけるぐらいだ。既存の枠の中でどれだけ高得点をとれるかをめざす競技。つまり、塗り絵みたなもん。
だから、まあ何も考えずとも大枠は決まっているのだからなんとかなるな、という気楽さはある。アウトラインが決まっているので、もうどんな本を読もうともどんな体験をしようとも変わらない。この塗り絵をすべて塗り終えて完成形を見たときに、「ああ、これはダメだな」と落胆して宗旨変えすることはあるかもしれない。が、まあ、そんな劇的な転換はそんなにないだろう。
だから僕は経済学が想定するような効用関数最大化マシンにはなれない。そうした選択の自由を与えられていない。いや、今まで自由にやってきたからこそ、過去の「こうありたい」という理想に縛られている。そうした宿命に屈している。
だけど難しいことはとにかく、この絵をさっさと完成させたいという気持ちはある。単調な繰り返しに没入したいのだ。どんな自由な発想から始まる絵も、最後は細部の塗り込みに終わるように、今やっているのはそうした完結への工程だ。

んで、こんな自分語りを長々としてまで言いたいことは、要するに「自由主義は人生の哲学ではない」ということだ。
自由主義者は「お前は自由に生きろ」なんて絶対に言わない。「自由に生きた方が楽しいかも」と価値観の宣伝をすることはあっても、「自由に生きろ」なんて命令することはしない。ただ政府に向かって「おれがやりたいことをやろうとしてるのに邪魔すんな」と叫ぶのだ。つまり、自由主義は「人生をどう生きるべきか」というイデオロギーではなく、むしろそうしたイデオロギーを権力者によって強制されることを否定するのだ。政府から「人生をどう生きるべきか」を強制されていないなら、それは「自由」だ。たとえその結果がつまらない行動パターンに映ったとしても、たとえ「自由という服従」に見えたとしても、それはなお「自由」なのだ。