虐殺器官 / 伊藤計劃

SFの夜明けは近いぜよ坂本竜馬のごとく語ってしまいそうになった大傑作。9・11後の混沌とした世界をシミュレーションした本格社会派SFです。現代思想にハマった軍事評論家が、理論とテクノロジーの可能性をとりいれて書き上げた渾身の近未来戦争小説っていう印象ですね。鳥肌が立つほど感動し、また知的にも揺さぶられました。クオリティが最初から最後まで全力疾走です。開始100ページ目でもう《オススメ》確定だったし、最後まで読みきった後はたとえ北半球を敵にまわしてでも絶賛しようと決意しました。


もう2007年は伊藤計劃円城塔の年ですね。この作品と円城塔「Self-Reference ENGINE」は同率1位です。ベクトルの違う面白さがあって本当に甲乙付けがたい。


SFネタとしては言語を扱っており、その点でも神林長平「言壺」と同じくらいすごかったんですが、さらに素敵なことにネタの守備範囲が広いんです。対テロのために進化した軍事技術。情報管理社会の行く末。テクノロジーの発達によって変質する倫理。そしてそんな複雑化した社会を照らす経済的視点。どれをとっても一流です。
ストーリーも善VS悪といった単純なものではなく、価値観VS価値観というものでした。ちなみに一番思想的に共感できたのはウィリアムズです。こんなカッコいい脇役は「ベルセルク」のジュドー以来だなあ(散りざま的な意味で)。というかここまで社会とテクノロジーの相克を書いているのになんで小松左京賞とれなかったんだろう。
最後に、名文の多い本書の中でもとくに感銘を受けた部分(の中でネタバレに抵触しないもの)を紹介します。

言葉にとっては意味が全てではない、というより、意味などその一部にすぎない。音楽としての言葉、リズムとしての言葉、そこでやり取りされる、僕らには明確に意識も把握もしようがない、呪いのような層の存在

まあこれはある意味当たり前です。うちの書評だって物語だけでなく文体を評価基準に採用しています。とはいっても、なんとなく気に入った文体があったらそれをとりあげて「ね? カッコいいでしょ?」とこれ見よがしに紹介するだけですが。この文体の分析をもっとシステマティックにやると言語学になります。


すべての文民連邦関係者に共通する特徴を、やはりこの男の声も備えている。音声と内容とが奇妙に剥離している感覚――自分自身もはっきりとは理解していないジャーゴンを、綱渡りのようにぎりぎりでリンクさせ、意味を失う寸前で現実につなぎとめ、言葉を紡ぎだしている――そんな印象のことだ。単純に軽薄といってしまってもいいのかもしれないが、いわゆる流行というものにまつわる軽薄さとは異なる不気味なものが、そこにはある。

うわあ。これは心当たりがありすぎる。似たようなことは友達にも言われました。プレゼンするときは、こういう薄っぺらいトークにならないよう気をつけたいものです。


「仕事だから。十九世紀の夜明けからこのかた、仕事だから仕方がないという言葉が虫も殺さぬ凡庸な人間たちから、どれだけの残虐さを引き出すことに成功したか、きみは知っているのかね。仕事だから、ナチはユダヤ人をガス室に送れた。仕事だから、東ドイツ国境警備隊は西への脱走者を射殺することができた。仕事だから、仕事だから。兵士や親衛隊である必要は無い。すべての仕事は、人間の良心を麻痺させるために存在するんだよ。資本主義を生み出したのは、仕事に打ち込み貯蓄を良しとするプロテスタンティズムだつまり、仕事とは宗教なのだよ。信仰の度合いにおいて、そこに明確な違いは無い。そのことにみんな薄々気がついてはいるようだがね。誰もそれを直視したくない。」

うーん。でも、仕事は同じ宗教だからという理由で、良心を活性化させていることもあります。私はこのブログをタダで書いているわけですが、そこに「はてな」というウェブサービスの良心を感じることだってできます。とはいえ、あながち全否定できるような話ではないんですね。有名な物理学者のこの言葉を思い出しました。

宗教があろうがなかろうが、善人は善行にいそしみ、悪人は悪事を働く。しかし善人が悪事を働くのは――宗教のためなのだ。
ティーヴン・ワインバーグ

極論ですが、そこには一抹の真実が隠されています。でも真実が常に必ずしも勝つというわけではありません。たとえそれが悪事でも、信仰の檻に囲われた人たちのあいだではそれは確実に善行なのです。私が善行だと思ってやっていることも、ある種の信仰にもとづいた「大きなお世話」である可能性は十分にあります。まあ、この善悪の問題について語りだすと、私の中のニーチェ的思考回路がむくむくとやる気を出してしまうので今日はこの辺で。