職業としての学問 / マックス・ウェーバー

ウェーバーにとっての学問は何であったか。効用面からは3つに分けられる。技術についての知識、考えるための方法、「明晰さ」への貢献がその3つだ。ウェーバーのいう「明晰さ」とは、ほぼ価値相対主義と同じだろう。価値判断をする(ある立場をとる)ということは、その価値観を信仰するということであり、その価値がいかに正しいのかといった「価値基準を正当化するメタ価値基準は存在しない」ということを理解しなければならない。
ニーチェがいうように、ありとあらゆる価値は相対的なもので、絶対的な価値の尺度(メタ価値基準となりうるもの)などないのだから、《真理》(これが正しいはず!という価値判断)の起源は信仰にすぎない。《真理》とは本来、絶対確実100%永久不変的に正しいもののはずだが、実際は「絶対確実100%永久不変的に正しい」と信じて疑わない信者たちがいるからこそ正しいということになっているだけだ。こうした価値相対主義が、「明晰」であるということだろう。

しかし価値相対主義は人を啓蒙するかもしれないが幸福にはしないケースもある。《真理》を共有できないというのは苦痛だ。あたかも《真理》であるかのごとく胸の内に響いていたあの真実も、個人的な妄想と同レベルだなんて認めるのは困難だ。

そこからニーチェが提唱したように、ありとあらゆる信仰をこき下ろし、全ての神を笑いのネタにしながら「軽やかに踊る」道もあるのだろうが、そうした思想はさすがに流行らないだろう。結局、明晰さ(知性)を犠牲にしてひょろひょろと生きる場合が多いように思う。

ここで宗教と学問(科学)の関係についてまとめよう。

ウェーバーは「世界は不条理だという経験が、すべての宗教の発展の原動力となってきた」*1 と語るが、これについて僕は「世界は不条理だという経験が、すべての技術の発展の原動力となってきた。内世界(内面)を変えようとすると宗教/人文科学の一部になり、外世界を変えようとすると科学になった」と捉えている。宗教も科学も、どちらも不条理を克服したい(あるいは見なかったことにしたい)という欲望に端を発しているのだ。だから宗教も科学も本質的には違いは無く、あるのはパフォーマンス(どれだけ欲望を満足させるか)の差でしかない。

だがウェーバーはそうした考えを「学問を生の制御のための根拠のある技術として、幸福にいたる道として賛美」*2 するものだと批判する。なんで? と思うわけだが、そんなこともわからんのかという感じでウェーバーは答えてくれない。

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