硝子のハンマー / 貴志祐介

貴志祐介の正統派ミステリ。密室で殺人が起きて、フェアな推理でそれを解き明かすという王道のようなストーリー。ふつうに面白いんでもう何も言うことはありません。あるのはただ、いいエンタメを読んだときの「いやー楽しかったっす!」という読後感です。でもなぜか物足りない。新鮮味に欠けるんですよ。たしかに手持ちの材料を調理して逸品に仕立て上げるテクニックは素晴らしい。ですが肝心のその材料が、その辺のスーパーで売ってそうな見慣れたものなんです。最高級の肉じゃがと凡庸な味付けのマツタケでは、たとえ前者のほうがはるかに美味しくても、なんとなく後者のほうを食べてみたくなります。とくにお客がなにか変わったもの・今まで見たこともないものを求めているなら、なおさらです。


誤解してほしくないのは、この作品を肉じゃが扱いしてるからといって別に叩いているわけじゃないってことです。世の中には多くの肉じゃがファンがいるように、ミステリファンもまた数多くいるのです。彼らにとって本書が垂涎の絶品であることは疑いようもないですし、門外漢の私にも最高級であることは伺えます。
って改めて読み返してみると、いかに私が高慢ちきなスノッブ野郎かがわかって愕然としました。素直に褒めればいいのになぜこうもネチネチとした戯れ言を繰り返すのか。第一肉じゃがってなんだ。肉じゃがって。自分がマツタケ扱いしている某ジャンルだって市場から見たらシイタケみたいなもんなのに。いや、むしろエリンギみたいなもんなのに。
おそらく、ここにはマイナーなジャンルの愛好家に幅広く見られる歪んだ自己愛があるのでしょう。いかに自分が褒めちぎろうとやはりジャンルとして三流であることは変わりないので、それならばいっそ売れ線のジャンルを不当に低く評価することで、相対的におのれのジャンルの価値を上げようというセコイ工作意識があるのです。このような工作活動は他にもあります。たとえば自らのジャンルを自虐的に語るときは要注意です。特にウザがられるのはマイノリティアピール。「いやー、本当に○○好きって少ないですよねー」という何気ない言葉の裏には「ジャンルがマイナーなのは真にその価値を理解できる人が少ないからだ。ファンが少なくて当然なのだ」という、マイナーであることを逆手に取った解釈の転換があります。つまり希少だからこそマイナーなのであり、その価値はまさしくレアなのだ、と。この価値転換の醜さを、わかりやすくネット的な文脈に翻訳すると「フヒヒ!マイナーでサーセンw」となります。リアルで言われたらぶん殴りたくなりますね。