悪と異端者 / 筒井康隆


筒井康隆のエッセイ。自衛隊の海外派兵問題・死刑囚の永山則夫日本文芸家協会の問題など、話題としては古いんですが、今読んでも十分に面白い。
たとえば、自衛隊の海外派兵問題についてはこうです。





世界史的転換期に国連平和協力法案というものが重なったため、心の落ち着きのないままに膨張発展してきた日本で「国際社会の一員としての自覚」だの「いつまでも今までのような態度をとり続けていることは許されない」だのという、見かけだけはカッコいいが、あまり意味のないことばが叫ばれはじめているのも、国家としての威信を身につけようとしているあらわれなのだが、現在の日本の資質から考えてこれほど遠く離れた願望はない。(中略)
別段カッコよくアメリカに「NO」などという必要はなく、「そんなこと言いはったかてまだ人質がおりまんがな」と、カッコ悪くおろおろ声で泣くだけで何もしないでいた方がむしろ、商人国家としての日本、最近景気のいい商店街のおっさんとしての日本にふさわしい誇りの保ち方だったし、そういう国家の存在だって許され得る。


面白い。面白すぎる。また、死刑囚の永山則夫の入会を拒否した日本文芸家協会に抗議して、協会を脱会した件についてこう述べています。

「自分だって人を殺すかもしれないという認識や想像力のないものが小説を書いてはいけない」という発言が報道されたため、当然のことだが「しかし殺人はいかん」「おまえは殺人を認めるのか」という多くの声があった。その「常識」に対して「その常識がいかんのだ」と反論する気はない。常識があるからこそ、常識以前の人間精神の混沌を書いてその本質に迫ろうとする小説もまた、存在できるのだ。娯楽的な小説を書く作家も、奇想天外な童話を子どもに語る者も、そもそもは善悪や常識以前のどろどろした人間精神の深い奥を垣間見させる能力が必要とされていた。だからこそ子供ですら人間というものの秘密や不思議さに目を見張り、固唾を呑んで聞き入ったのではなかったか。常識だけを基礎にした小説がいかに価値のないものかは言うまでもない。したがって今度の入会拒否問題は「文学以前の常識の問題」ではなく、やはり「常識以前の文学の問題」でなければならないだろう。


これも名文。さらに脱会した経緯についてはこう続けています。

実際に人を殺し、死刑宣告されたものの身の重さは、夢などから類推できる筈がないのである。その重さを人並み以上のすぐれた文章で表現できる人物が入会を求めてきている。三顧の例を持って迎えるべきではないか。最初、永山則夫が会員に推薦されたと聞いたとき、おれはそう思った。そして、とどのつまり拒否の決定があったということを知ったときは身の置き所の悪さを強く感じた。作家の集まりを「虞犯者の集団」と認識して反体制的な梁山伯のごときロマンを求めていたことは間違いだったのだ。


なんだかんだいって、永山則夫の入会を拒否した日本文芸家協会は政治的にうまく立ち回ったんじゃないかなあ、と思います。やっぱり作家なんて売文屋ですから、一般人がどう思うかを意識するのは商売上必要です。逆に、反体制だからカッコいいというのはいかにも青臭いというか中二病的です。まあ、そこがいいんですけどね。俗物に占領されて窒息しそうな空気に風穴を開けてくれる、このやんちゃっぷりが好きです。