小説のレビューがつまらない本当の理由

ほとんどの書評が文芸批評としては最低レベルの「印象批評」です。だからといって、文学のなんたるかを分かってないから、と言うつもりはありません。問題はその印象批評のテクニックです。



印象批評とは

印象批評は要するにその人自身にとって面白いか面白くないかを感性で語るというものです。感性を同じくする同士なら、「ああわかるわかる〜」と納得できるのですが、合わない人にとっては全然さっぱりです。とはいえ、どうしてそのように感じたかを説明するのはすべからく「自分語り」につながります。私ってこういう人間だから、こう感じたんですよー、というわけですね。この「自分語り」ほどうっとうしいものはありません。知るか。この一言でばっさり斬ってしまいたい。「自分語り」の中にも面白いものはありますが、えてしてトークの技術が足りないせいか面白くない。
というわけで小説のレビューに必要なのは以下の2点です。

  • 「自分語り」以外の何か
  • トークの面白さ

「SFファン語り」

私がSFのレビューにこだわる理由がここにあります。つまり、SFにはセンス・オブ・ワンダーというコンセンサスがあるから、「自分語り」をせずに作品の面白さを伝えられるのではないか、というわけです。もちろんセンス・オブ・ワンダーも、未知への驚きという感性であり、「自分語り」の一種ですが、SF文化圏内ではある程度確立した共通認識です。ですからこれは「自分語り」ではなく「SFファン語り」です。SFファン以外にはどうでもいいことですし、SFファン自体が絶滅危惧種なので価値も薄いでしょう。しかし、このネットのどこかにひっそりと棲息しているSFファンのために、同じSFファンとして「SFファン語り」をやめるわけにはいきません。
しかしメジャーな産業のシェア1%の会社とニッチな産業のシェア100%の会社を比べた場合、どっちが優れているのかといった問題は依然として残ります。鶏口牛後という言葉があるように、人は昔からニッチな分野に首を突っ込んでいい顔したいのです。しかし現実はどうでしょう。優れた「SFファン語り」とその辺の「自分語り」、はたしてどちらが価値を持つんでしょうか。正直言ってわかりません。

考察してみる

「SFファン語り」は所詮マイナーです。しかも小説一般で使えるテクニックではありません。というわけで誰にでもできるレビューの定石を紹介します。それは考察するということです。作品を感性で語るのではなく、理性で語るのです。要するにこの作品はなにを象徴しているのかということを読み取り(勝手に受け取り)、解釈する(含意をでっちあげる)のです。言い換えると、わかりやすいストーリーを見い出すということでもあります。
しかしこれは考察の名を借りた、個人的価値観の押し付けでもあります。その価値観が面白ければ考察も面白くなるんですが、なかなかそうはいきません。また、たいして面白くない価値観でも、ちゃんと筋道を考えて演出すればそこそこ映えるんですが、これは単なるトークの技術を超えた立論のセンスが要求されます。かなりの高等テクニックと言わざるを得ない。

トークの技術の重要性

さて「自分語り」や考察もけっこうなんですが、やはりそれらは依然として感性に引っ張られています。それらの批評を究極的に要約すると「これってマジすごくね?」であり、「うんうん、すごいよねー」と同意できないものにとっては無価値です。その美学を共有できないものにとっては非常にどうでもいいのです。そこでトークの技術ですよ。
トークの面白さがなぜ大事かというと、それが芸人のポテンシャルが最も発揮される技術だからです。というと批評とテレビ番組を同列に語るなんてけしからん! と怒られそうですが、まあ、そういうことです。ではなぜ芸人的エンタテイメント性が批評に必要かというと、それは審美的な評価は本人以外にはクソつまらない、というきわめて本質的な理由からです。
なにかを美しいと感じるとき、人はその美に理由を求めます。調和がある。色彩の感覚が優れている。構成のバランスが絶妙。いや、知らんわ。はっきり言いますが、美の源泉は主観です。恣意的で当人以外は誰も共有できないものです。だからどんなにそれが美しいかを千の言葉で語ってもわからない人にはわからないし、それを美しいと感じることができないのがどんなに無教養で品性下劣でダメ人間かを万の言葉で力説しても、やっぱりわからない人にはわからない。
とはいえ「評論家がこういってたから」とか「ポストモダンだから」という浮付いた権威主義にホイホイとからめとられて、脱構築がどうのポスト構造主義がどうのと鼻息荒くまくし立てることで、なんらかの美的上の価値を演出することもやぶさかではありません。しかし、そんな言論のどこに価値があるのでしょう。現代思想からそっくりそのまんまトレースしてきた審美眼で作品を語ることのどこが面白いのでしょう。それが「面白い」とされる言論空間はアカデミズムのそこかしこに存在するんでしょうが、間違いなくこのサイトはそれに該当しませんし、たぶんこのページに来る多くの人にとってもそんな論説はセロハンテープの次くらいにどうでもいいのです。そしてブログ一般にもそんな思想的な行為は求められていません。求められているのはエンタメです。
しかし「スゴイ」「ヤバイ」「面白い」「美しい」そんな感想をただ述べるだけでは何も伝わりません。それがいかに面白いのかということそれ自体を面白おかしく語ることによって、初めて「いやーなんか面白いこと書いてるなあ。ひょっとしたらこの本も面白いのかなあ」という気持ちを引き出せるのです。1000の美学よりもたった1つのギャグのほうが人を惹きつけるのです。