告白 / 町田康

実際に起きた殺人事件「河内十人斬り」をモチーフにした大傑作町田康は初めて読んだんですが、今までスルーしてきた自分を蹴飛ばしたくなりました。京極夏彦のような深くて思弁的な心情描写が、舞城王太郎の軽やかな文体で語られた、といった感じ。京極夏彦「嗤う伊右衛門」のような常人を突き放した美学ではなく、筒井康隆「家族八景」 「底流」(「あるいは酒でいっぱいの海」収録)のような下卑た思考の垂れ流しなんですが、清濁併せ呑む筆致は大変リアリティがあります。
文章それ自体の魅力が半端じゃなく、自分にとっては理想的な文体でした。ギャグめいた笑いを取りつつも、徹底した鋭い描写を心がけ、その描写の凝り具合がまた笑いを生むという、エンタメと文学性の幸福な両立。たとえば「熊太郎は嬉しさのあまり踊ってしまった」という文もこの筆者にかかれば、次のようになります。

熊太郎は嬉しくてたまらず、足をばたばたさせつつ、両肘を脇腹につけ、肘から先をくにゃくにゃ動かしながら蛇のような目つきで左右を睥睨、ひゃーあー、ひゃーあー、ひゃららー、と歌いながら座敷をぐるぐる歩き回るのであった。いったいなにをしているのかというと、これは熊太郎が考案した踊りで、一見したところまったく嬉しそうに見えないのだけれども、当人の中では爆発するような歓喜が渦巻いていて、その嬉しさをあえて表現しないという克己力を自分が持っているというのは、自分が猛烈に幸福であり、精神に余裕があるからそういうことが出来るのだ、ということを感じるということそれ自体がまた幸福、という具合にどこまでいっても幸福の皮膜で覆われるという複雑精妙な心の動きを表現した踊りなのであった。

天才か。
ストーリーの方も「人はなぜ人を殺すのか」という社会性のある重いテーマをしっかりと捉えた素晴らしいものです。キチガイだから人を殺すのだ。そういってしまうと簡単ですが、でもそれは異常な事件だからきっと異常な人がやったんだろうね、と言っているのと一緒で、大根を売っている人が「なぜお前は大根を売っているのか?」と訊かれ「八百屋だからです」と答えるのと同じくらい無意味です。異常とはそもそも何なのか。異常な人になるとはどうしたことか。それこそを考えるべきです。
主人公の熊太郎はやくざ者です。といっても犯罪組織の構成員としてのヤクザではなく、酒・女・博打にハマったニートのような極悪ポジションです。どうしようもない人間ですが、いかにしてダメ人間へと堕落したのかといった過程が丁寧なので、この熊太郎にはけっこう感情移入してしまいます。というか、人間の持つ普遍的な不器用さが理由となっているので、誰もが納得するんじゃないでしょうか。それは、思考を表現する言葉を知らない、ということです。
自分が思っていることを100%相手に伝えられないのは歯がゆいことです。特に相手が「はいはいはい、わーった、わーった、わーった」と流す気満々なら余計口惜しいでしょう。ああいいよ。お前がそういう態度を取るならもう何も言わねーよ。と偏屈になってしまうのも無理はありません。
熊太郎はまさにこのような状況にあったのです。特に熊太郎は人一倍思弁的な性格で、明治初期の農村部における百姓言葉でその思いを表現するのは不可能でした。相手に伝わらないならしょうがない、深く考えないで楽に生きようか、という柔軟性もなく、ひたすら本当に自分が思っていることにこだわり続けたがゆえの悲劇です。その本音を告白することが熊太郎の人生だったのです。
以下ネタバレ。





熊太郎は最後に本当の自分の思いを告白しようとします。今まで言ったことはどこか自分の気持ちに嘘をついた上っ面の言葉だったのです。もはや後にも先にも引けぬ状況になって、せめて死ぬ前に一度だけは自分の思いを告白しよう。

そう思った熊太郎はもう一度引き金に足指をかけ、本当の本当の本当のところの自分の思いを自分の心の奥底に探った。
曠野であった。
なんらの言葉もなかった。
なんらの思いもなかった。
なにひとつ出てこなかった。
ただ涙があふれるばかりだった。
熊太郎の口から息のような声が洩れた。
「あかんかった」

そして熊太郎は自害します。言葉と思考が一致しないことが原因で人生を棒に振り、言葉と思考の合一をなすたびに追い詰められ、そして最後の最後、本当の自分の思いを言葉にひねり出そうとしたのです。でもそんな本当の思いなんてものはなく、ただ後悔の念があっただけ。このラストは悲劇的ですが、深いですよ。
本当の気持ちを告白しようとする熊太郎は、どこかに本当の自分がいるんじゃないかとふらふらしている「自分探し」にそっくりです。でもそんな本当の思いや本当の自分なんてのは、自分勝手につくりあげた実体のない腐った信仰にすぎません。人間は関係性の束だという箴言があるように、その時々の人間関係が全てであり、「本当の自分」なんてものは現状の人間関係や社会的地位に嫌気がさしている者の妄想です。自分の行動に論理的整合性を求めすぎて苦労する人間も、似たような「こうあるべき私」に囚われています。そしてこういった思考回路を持つこと自体が性格を内向的にし、より人間関係の構築を難しくさせ、さらに「本当の自分」への憧れを強化するという負のスパイラルが存在します。
本当の自分、本当の関係、本当の世界、「本当の」がつく言葉はどれもこれもがスピリチュアルな胡散臭さがあります。しかし魅力的な概念であることは確かです。そんな概念に囚われ翻弄される悲劇は、いつの時代どこの国で読んでも面白いと思います。
最後のシーンは熊太郎の魂が現代の祭りを漂うというものでした。これは最初蛇足かなあと思っていました。そんなファンタジー要素はいらん。あくまでも現実的な話にしてほしかった。しかし、よくよく考えてみるとこの魂という表現は何も幽霊や霊魂のようなオカルトとして受け取らなくてもいいのではないか。魂というのはすなわち人間の本質です。その本質が現代にも受け継がれているということは、熊太郎の悲劇が決して時代的なものではなく現代においても通用する普遍的なものだということを示しているのでは。そう考え直すと、この結末でもいいかなあ、と思います。