マルドゥック・スクランブル―The Second Combustion 燃焼 / 冲方丁

ネタバレ無しの総評です。ネタバレ有りの総評は「マルドゥック・スクランブル―The Third Exhaust 排気」をどうぞ。





この小説ほどバトルに必然性のある小説は無いでしょう。小林泰三「ΑΩ」梅原克文「二重螺旋の悪魔」 「ソリトンの悪魔」筒井康隆「七瀬ふたたび」などが超能力バトルものの中では好きなんですが、どれも戦いの動機が単純で、「降りかかる火の粉から身を守る」なんです。戦いの動機を深く掘り下げれば必ずいい作品になるというわけではありません。が、それをすることによってバトルが単なる小説のフレーバーではなく、強烈なメッセージ性と社会性を持つものに昇華します。しかもその戦いのリーズニングを主人公だけでなく、敵側にも行うことで、善悪二元論ではない重層性のあるストーリーが生まれます。
バトルの動機に限らず、あらゆる動機というのは価値観を前提にしています。ある価値観を信じているからこそ、人は衝き動かされるのです。その価値観について著者はあとがきでこう述べています。

我々は無数の価値観を作り上げることで、かつて地球上のどのような生命もなしえなかったほどの規模で社会発展を果たした、人類という名の種である。価値観とは、偶然の出来事から必然へと赴く、人類独自の生存様式をいう。たまたま起こった事柄の意味を探り、その事柄の反復をもくろみ、そしてさらに新たな、より「価値のある」事柄を起こそうとする。それが必然へと赴くということである。

ありとあらゆることは偶然そうなったと言えます。そこになんらかの価値や法則を見つけ、必然を見出すのは人間の意志です。例えば人類が誕生した理由も特に意味は無く、偶然そうなった出来事なのです。しかし人類は自分たちの人生に何らかの意味があると考え、より価値のある人生を作ろうと努力します。価値とはもともとあるものではなく、人の意志によって創造されるものなのです。
価値とは何か、という思索を経て、動機とは何かを考え、自分たちが戦う動機とは何かを問う。その過程をまだるっこしいを思う人もいるかもしれませんが、私は難しい問題から逃げずに真正面から挑むそのスタンスを評価したい。この物語は、戦いの理由とは何かを思索し、そして戦うべき価値を創造する物語なのです。
戦う理由のひとつに、武器があります。銃社会といわれるアメリカと銃規制の厳しい日本の治安を比べ、武器の存在こそが犯罪の温床だという論理には一理あります。この小説が面白いのは、そんな武器に人格を与え、擬人化したことです。たとえば群衆の前で無差別にぶっ放したら、武器そのものが自身の濫用に抗議するわけです。「おれをそんなことのために使うな」と。
現実においても、兵士は人格を持った武器だと言えます。戦争の指導者たちにとって、兵士はまさに物言う武器なのです。しかし両者はあまりに遠く隔てられているので、一兵士の死は指導者にとって人間の死ではなく、単なる数字であり統計になってしまっています。戦争の指導者を選挙で選んだ国民にも同じことが言えます。あるいは自分が戦場に行くわけではないからと、安易に自衛隊の派遣に賛同するのも本質的には同じです。
しかし武器とその使用者が一体となっていたらどうでしょうか。人を無闇に殺すたびに泣き言を言う武器と一緒でも、同じように武器を単なる殺戮の道具として扱えるでしょうか。現実には武器(兵士)とその使用者が乖離しているため、武器の不満は指導者の命令に押し殺されてしまいます。そんな武器の不満と使用者の意思が密接にリンクしたとき、そこに武器の本質・テクノロジーを扱う人間の本質が浮かび上がります。