祈りの海 / グレッグ・イーガン

現代SFの頂点。私にとって最高のSF作家グレッグ・イーガンの入門書です。短編集なので長編よりもまとまっており、小説としてもより読めるものになっています。「SFってなんか子供っぽいし、しょせん低俗小説でしょ」と思っている人は是非本書を読んでいただきたい。アイデンティティ――自分が自分であるということ――、意識、現実、それぞれが重くて深いテーマですが、それらの問題が抱える深淵を本書は見せてくれます。ここまで考えさせられる小説はありません。一般小説が愛だの人生だの文化だの哲学だの思想だのいくら語ろうとも、イーガンが語る領域の新鮮さには敵いません。
一般小説が「ラーメンの塩・醤油・味噌の中でどれが美味いか?」を語ってるとしたら、イーガンは「そもそもどこからどこまでがラーメンといえるのか」を語っています。つまり、「人間はどう生きるべきか・どう生きているのか」とか 「人間はどんな価値を信じるべきか・どんな価値を信じているのか」を語るのではなく、「そもそもどこからどこまでが人間だよ?」と問うのがイーガンなのです。
現実離れした夢物語と思えるでしょうが、テクノロジーの進歩はいずれイーガンが語る問題に直面するでしょう。その未来を思えば、これほど前向きに人間の本質を追求した小説はありません。一見、荒唐無稽なファンタジーに思えるような舞台設定も、最先端の科学知識と精密な論理によって十分にハードSFとなっています。かなり難解ですが、その難解さすらも作品にリアリティーを与えているのでグッジョブです。むしろこの難解さがないとイーガンって感じがしないっていうか。ああっ、もう、とにかく天才です。


貸金庫

人生が日替わりがだったらどうするか? というストーリー。朝目覚めると昨日までとは全く違う自分になっている、しかもそれがずっと続くわけです。一日置きに様々な身体と職と人間関係を体験していく主人公。彼は一体誰なのか? 彼を彼たらしめているのは何なのか?

キューティ

男が妊娠する話。たしか筒井康隆にも似たような話がありましたね。*1
ペット感覚で子どもをつくるというテクノロジーのおぞましさと、人間か人間で無いかの境目はどこにあるのかという問題がからみあった良作です。そこはかとなく小林泰三っぽいですね。

ぼくになることを

自分が自分であるということはどういうことなのか。アイデンティティに真っ向から挑んだ傑作です。
精神の電子コピーが可能になった世界。そのコピーとオリジナルの違いは、意識というプログラムが走っているハードウェアが機械か脳神経かの違いでしかありません。この場合、両者は同一といえるのでしょうか? 仮に同一だとしましょう。この両者のうち一方だけが突然死んだらどうなるでしょう? 例えば、完全に同期している両者のうち、オリジナルが死んでコピーだけが生き残っても、そのコピーはオリジナルがたどるであろう未来をそっくりそのままたどるわけです。つまり、ハードウェアの片方が死んでもプログラム自体は生きているわけです。この場合、その人の精神は死んだといえるのでしょうか? 人が生きているということ、そして自分が自分であるということ、その条件とは一体何なのか? 
まさに魂を揺さぶる一作です。この短編集で最も面白く、また一番初心者向けの作品ですので、これだけでも是非ご一読を。

ジェンダーがテーマの話。イマイチ面白さが分かりませんでした。

百光年ダイアリー

未来をあらかじめ知ることのできる社会。ユートピアなのかディストピアなのか悩みに悩む、イーガンらしい短編。

誘拐

自分にとって他者とは一体何なのかを問う短編。素晴らしい。

放浪者の軌道

思想SF。近くによるだけで他者のイデオロギーが伝染する世界。どんな思想からも汚染されずに生きるにはどうすればいいのか、そもそもそういった決意も何らかの思想に毒されているのではないか、というなかなか考えさせられる作品です。これほど感染率は高くはありませんが、現実においても「思想」はこのような性質を持っているのですから。

ミトコンドリア・イヴ

ミトコンドリア・イヴって本当にいるのか、というお話。遺伝学的なネタも満載ですが、科学事実を世間がどう扱うのかという社会派SFでもあります。

無限の暗殺者

無限の平行世界を巻き込む渦の話。平行世界A・B・Cがあるとして、Aにある物体がBに転移し、さらにBにあるそれがCに転移する……この物体の強制転移が一定の範囲で起きるのが渦です。主人公は渦の中心にいて、渦を引き起こす張本人を殺すための暗殺者。犯人はその世界だけでなく無限の平行世界全てに存在するので、主人公は無限の平行世界全てで同期して犯人を暗殺しなくてはいけません。設定だけでも難解ですが、このネタが主人公のアイデンティティに深く結びついているので、もうスゴイの一言。一番のお気に入りです。円城塔「Infinity」(「Self-Reference ENGINE」収録)も無限とアイデンティティが結びつく傑作。

イェユーカ

医療SF。医学の本質とは、医学の到達点とは、というテーマです。

祈りの海

イーガンの宗教観が伺える作品です。宗教の意義、宗教をどう乗り越えるのかというテーマです。他の短編に比べると、やや鋭さに欠ける気がします。

*1:生まれてくる子供の性別を訊かれて、「へぇ、男の中の男でございます」と答えるという下らないオチでした。筒井さんらしいです。