ソラリス / スタニスワフ・レム

巨匠スタニスワフ・レム。「ノーベル文学賞」受賞寸前までこぎつけたレムですから、SFファンだけでなく一般にも広く知られているでしょう。そんなレムの代表作「ソラリス」。ファーストコンタクトものという、SFではよくある題材なんですが、ほかの作品とは一線を画しているとの事。読む前からいやがうえでも期待は高まります。



レムはファーストコンタクトものを3種類に分けました。1.相互理解して共存、2.相手に侵略される、3.相手を侵略する。でも待てよ、結局それらは全て相手が何をしたいのか・相手が何者なのかを理解しているじゃないか、と問うわけです。突然わけもわからず宇宙人が攻めてきた、という映像作品でありがちなパターンも、とりあえず相手が「敵」でこちらを侵略しようという悪意は理解できるのです。こちらが侵略する場合は、だいたいにおいて人間より科学技術が劣った異星人がでてくるので、相手を理解することはたやすいでしょう。しかし、地球とは全く異なる環境で生まれた生物を人間は理解できるのか? 科学技術が進歩すればなんでも理解できるようなるというが、人間は人間であるがゆえに決して理解できないものがあるのではないか? 
そしてレムは人間の知性では捉えきれない異質な存在「ソラリスの海」を登場させます。惑星全土を覆い、その軌道を修正しているらしいソラリスの海。研究してはみたはものの、結局知性があるのかどうかすらわからない謎物質です。主人公はそこに派遣されて、自殺したはずの恋人と再会します。混乱する主人公。どうもその恋人は主人公の記憶からソラリスが勝手に再生した存在らしく、色々とホラーな現象がついてまわります。この恋人はソラリスからのプレゼントなのか、それともコミュニケーションのために送った使者なのか、結局それも分からずじまいです。ソラリスの海は一貫して、何がしたいかもよく分からないし、何者なのかもよく分からない存在でした。いつかは理解できるだろう、そうしないとオチがつかないしな、と期待した読者は最後までどことなく居心地の悪い気持ちにさせられます。そして理解できるという考えがいかに傲慢か気づきます。
「人間が生き物の生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね……」とは手塚治虫ブラック・ジャック」の本間丈太郎博士の名言ですが、レムはこう言うのです。「人間が森羅万象を全て理解しようなんて、おこがましいとは思わんかね……」
ただなあ。たしかに40年前の作品とは思えない良作ではあるんですが、いかんせんテーマに新鮮さを感じることができませんでした。ハイゼンベルクの不確定性原理を知っている身としては、そんなもん当たり前じゃん、と。*1
しかしレムが文学で哲学なら、イーガンだって「万物理論」「順列都市」でそれ以上に文学や哲学してる気がするんですが、どちらの分野にも門外漢なのでおそらくSFファンのたわ言に過ぎないのでしょう。余談ですが、SFというのは理解できない人にはとことん理解できないジャンルなので、なんとなく文学と結び付けたくなるのはわかります。文学は難解であればあるほど高尚で素晴らしい、というイメージがありますよね。「これサッパリ分からないよ」「いや、○○が簡単に理解できてたまるか」みたいな。同じ難解でもこれがSFとなると、一部にしか受けないゲテモノ扱いされます。というわけで「このSFは文学としても素晴らしい」と評することでその難解さにつきまという負のイメージを刷新でき、晴れて世間の皆様に胸を張れるというわけです。やったぜ! ……というのは半ば冗談なので本気にしないでくださいね。と、予め逃げの余地を残して批判をかわす体たらくですが、ブログとしてどうなんですかねコレ。

*1:この定理は、「粒子の運動量と位置を同時に正確には測ることができない」というものです。観測するとは物体に干渉することでもあります。この文字を知覚しているあなたも、文字そのものではなく、文字に反射した光子を知覚しているのです。物体がマクロレベルなら干渉はたいした影響は与えませんが、ミクロレベルでは観測に支障をきたすほどとなります。たとえるなら、闇の中を転がる野球ボールに無数のバレーボールを投げつけて位置を調べるみたいなもんです。これが大型トラックなら、跳ね返ったバレーボールの動きを調べて、対象の大まかな位置を捉えられそうですが、野球ボールではバレーボールを当てた瞬間どっか飛んでってしまい、正確な測定は無理でしょう。