人間の測りまちがい / グールド

科学と政治の根源的な癒着を暴いた名著。科学と政治の癒着と聞くと、悪徳官僚とマッドサイエンティストが「越後屋お主も悪よのう」「いえいえお代官様ほどでは」「フハハ!」「フヒヒ!」と悪巧みしている構図が目に浮かびますが全然違います。むしろ「政治家って悪いヤツばっかですよねー。え、僕? やだなあ、僕は善良な市民ですよ、ハハ」とか真顔で言っちゃうような人がいかに政治的に動いているか、ということを言っているのです。
本書のテーマは、科学がいかに政治的に利用されてきたか、逆に政治がいかに科学を歪曲してきたかです。人種差別のためにでっち上げられた数字、階級支配の維持のために利用されるIQテストなどなど……。いかに社会的なフィルターによって科学が測りまちがいをしてきたか、データの細かな検証によって誰の目にも明らかなように示しています。
科学がなぜ政治色を帯びてしまうのでしょうか。グールドに言わせれば、科学とは主観的にならざるをえないものです。どんな物事も、個人的な「こうでありたい」という願望・「こうあるべきだ」という信念によって脚色されてしまい、客観的な事実とはなりえません。だからこそ自分の主義主張を自覚して、その個人的な好みがデータの解釈を捻じ曲げないかチェックすべきなのです。慎重で謙虚なスタンスが求められるのです。つまり自分は公正で中立だと自負する人ほど、自分の政治性(個人的な好み)を自覚しませんから、無意識のうちに政治的に動くのです。
これが一市民ならば政治的に動いたところでたいした影響はありません。問題は科学者です。科学者には「科学とは客観的な事実を語るものだ」という信念があります。その信念の通りに実際に行動してくれればいいんですが、現実はそうではありません。「自分たちは客観的である」という信仰のせいで、「自分たちのデータの解釈が主観的な好みに歪められているかもしれない」とは夢にも思わないのです。正義を自称する集団ほど残酷なように、客観を自負する科学者ほど主観的にデータを解釈するのです。



たとえば懐疑主義で有名なデイヴィッド・ヒュームですらこう発言しています。

白人以外で文明化した国は決して見られないし、行動においても、思索面においても、個人的に卓越したものは見られない

そして彼は実際に多くの政治的なポストにつき、この人種差別の信念のもとに行動しました。

科学は、人間が行わねばならなくなって以来ずっと、深く社会に根ざした活動である。科学は予感や直観、洞察力によって進歩する。科学が時代とともに変化するのは大部分が絶対的真理へ近づくからではなく、科学に大きな影響を及ぼす文化的文脈が変化するからである。事実とは情報の中の純粋で汚点のない一部分ではない。文化もまた、我々が何を見るか、どのように見るかに影響を与える。さらに、理論というのは事実からの厳然たる帰納ではない。最も創造的な理論は、しばしば事実の上に理想的直観が付け加わったものであり、その想像力の源もまた強く文化的なものである。


そうとは知らずに大衆は「科学者が言ってるんだし、よくわからんけど正しいんだろう」と盲目的に受け入れてしまいます。そして世論が形成されます。偏見というフィルターにますます磨きがかかります。この政治的な流れは第二第三の科学者たちを感化します。彼らは、自身のフィルターに気づきもせずにせっせとデータを恣意的に解釈して「客観的な動かぬ証拠」とやらを量産するのです。こうして科学と政治の強力タッグが完成します。
だから本書は人種差別批判・IQ神話批判にとどまらず、科学批判でもあるのです。とても普遍的で価値のある科学書です。不満を言えば、読みづらくて冗長でした。この本だけかと思ったら「ワンダルフ・ライフ」はもっと読みづらかったです。ミチオ・カクあたりを見習ってほしいわ。