意識の謎というものは科学では扱いにくい問題で、クオリアだの仮想だの色々と言われていますが、具体的にはいまだによくわかっていません。でもわからないなりに答えることは可能です。
他人の意識の有無を確かめることはできない
そもそもある人間に意識があるのかないのかどうやって判断すればいいでしょう? たとえばこの文章を書いている私にはちゃんと意識があるという自負があるんですが、でもぶっちゃけ全く同じような文章を書くことはプログラムにだって可能でしょう。このとき、外部からは私が意識を持った人間なのか、それとも単なる自動文章作成システムなのかは判断できません。
さて、このことはブログにとどまる問題ではありません。原理的にはその辺を歩いている人や今あなたの隣にいる誰かにだってあてはまります。その人に向かって「お前意識ある?」と訊いてみてください。確実に「いや、意識あるよ。当たり前じゃん」という答えがかえってきます。しかし、そのようなリアクションを取る生体システムと、本当に意識を持った人間とを区別することはできません。あたかも意識があるかのように振舞う、全く意識の無い存在かもしれません。
意識は機械的なアウトプット
客観的に見れば、人間というのはある情報をインプットし、それを何らかの方法で解釈した結果をアウトプットする機械です。その表現方法は、文学や芸術だったり、熱い講演や何気ないトークだったり、無言の行為だったり、はては自分の心の中で完結する思考だったりします。そこにどんなクオリアが潜んでいようとも、他者から見れば単なる報告文です。
ただ人間の意識がそんなプログラムじみた報告文作成システムと違うのは、このシステム自体が自身の報告文を読むことができるという点です。
「リンゴが目の前にある。そのリンゴは赤い。そういえばリンゴ最近食ってないなあと私は考えた」このような報告文をアウトプットするだけなら簡単です。その辺のプログラムにだってできるでしょう。コピペで一発です。しかし意識というプログラムの変わったところは、そのアウトプットされた文章を読んで「ああ自分は今こういうことを考えてるんだなあ」とリアルタイムに感想文をアウトプットできる点です。
つまり意識は、文章を書き綴りながらもその書き綴った結果をリアルタイムに逐次読んでいって、その読んだ内容を反映してさらに書き綴っていくというプログラムなのです。自我とは、その《読む》という行為の中に立ち現われるイメージであり、いってしまえば錯覚です。物語を読んだときに心の中に浮かぶ風景と一緒で、仮想の存在でありフィクションです。もちろんクオリアも、世界を《読む》ことによって脳内に浮かぶ虚像です。意識は、情報をある一定の流儀で解釈することで、そこに意味のある何か(クオリア)を見出しているのです。
さてこのクオリアが既存の科学で捉えきれないのは当たり前です。脳科学では意識が生まれている時のニューロンの構造はわかります。しかしその構造からどうしてクオリアが生まれてくるのかはわかりません。これはニューロンの発火現象が自身を《読む》ときのやり方と、私たちがニューロンの発火を物理的な現象として《読む》ときののやり方(脳科学)がまるっきり違うからです。この文章が日本語という情報システムの下でしか意味を成さないように、脳内の電気的・化学的な反応もそれ相応の読み方をしてこそ、はじめてクオリアという鮮やかな主観的体験が生まれるのです。意識の謎というのは要するに、ニューロンと私たちでは情報処理の仕方が違う、ただそれだけのことだったのです。
しかしこれはクオリアという文学的な表現をシステマティックに言い換えただけで、言っていることはたいして変わっていません。しかしジョン・ホイーラーが「ビットからイット」理論で提唱したように、情報を処理する=《読む》ということは宇宙の根源的なあり方であり、人間の本質であるともいえます。だから情報処理という視点でクオリアを解釈するのは妥当ではないでしょうか。
この説明で不満に思う人もいるでしょうが、ぶっちゃけこの辺が限界なんです。その《読む》ということが結局どういうことなのかということを探求するのは、宇宙の果てがどうなっているか観測できないのと同じように、人間にとっては原理的に不可知な領域へ足を踏み入れることになってしまいます。究極の素粒子を発見しても、その素粒子がまた別の素粒子に分解できてしまう可能性を否定できないように、堂々巡りの深みにはまってしまうのです。
個人的にはクオリアの議論はカント的などうでもいい形而上的な論争にすぎないと思っています。カントは物自体は不可知であることを認めましたが、それでも人間にはア・プリオリな認識が可能であるとしました。それはニーチェに言わせれば「ある方法によって」というきわめていい加減な理屈であり、またそのような哲学的議論には意味がないと批判しました。ア・プリオリな認識など可能であるを要しない、と言うのです。私も同じく、クオリアの記述など可能であるを要しない、と思います。クオリアが人間の魂として存在しようが、単なるニューロンの発火であろうが、実生活にはたいした影響はありません。
だからといって科学が役に立たないわけではない
結局南極、科学的思考によって脳内のニューロンに記述できるは「〜という物理現象」という思考でしかなく、科学的思考の積み重ねによって「〜という感覚」という直接的な感覚経験を脳内のニューロンに記述することは不可能なのです。
そして、全ての思考は脳内のニューロン塊の動的状態として記述されますから、脳内のニューロン塊の動的状態として記述できない直接的な感覚経験を扱うことは、不可能なのです。
ここが科学的思考の限界なのです。
直接的な感覚経験を記述する唯一の方法は、直接的な感覚経験それ自体でしかあり得ないのです。
意識の謎を解いてみました - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ
たしかにもっともな意見ですがこれは科学的思考の限界を示しているだけで科学的手法の限界を示しているわけではありません。どんな電気的な刺激が「快」や「不快」を司っているのか、どんな神経細胞の結線が「リンゴの赤いという感じ」に対応しているのかを調べることで、物理的に脳内にそうした状況を再現できるようになるでしょう。そうすれば物理的な状況設定によってクオリアを記述できます。(グレッグ・イーガン「しあわせの理由」などではそうした、科学がクオリアを自在に操るテクノロジーについて書いています)。
またもっと手軽にアルコールの一発でもキメることによって、化学反応とクオリアの密接な関係も証明できます。この手法をさらに深化させることで、科学的な状態とクオリアの関係を正確に記述できるようになるでしょう。まあ、サイバーパンクの受け売りなんですけど。