他者承認を通貨としてあつかう非モテ

とにかく他者から自分の存在を肯定されたい! という人生は、なんだか息苦しいのではないかと最近感じる。いや、もちろん自分も他者承認に飢えていることはたしかだし、その必要性をないがしろにしたいわけではない。マズローによれば、他者からの愛情・尊敬は人間の基本的欲求だからこれが足りないとメンヘラ一直線でたいそう困ったことになる。だから、まあ、他者承認への欲求自体はもう本能みたいなもので、善い悪いを別として認めるしかないよねって感じだ。僕が興味深く思うのは、いわゆる非モテ(他者承認に不自由な人)が、承認してくれそうな他者がいるにもかかわらず、なんかよくわからない理由で、それを拒んでしまう現象だ。

非モテの求めるもの

非モテは、仕事面で成功してモテるようになってもなんだか楽しくなさそうなのである。

ただ、いまこうプチモテ期を迎えると、暗黒面が顔を出す。
あの頃相手にしてくれなかったくせに!っと今俺に近づいてくる女性たちに言うのはお門違いだ。
まったくの別人なんだから。
でも、一番支えてもらいたい時期を一人で耐え切ってしまった。
今は、高い対価を払ってまで結婚したいとは思わない。
遊びで付き合うつもりもない。

孤独でも世界を恨まない女性を求む

仕事で成功してある程度の金もあるけど、それにつられてやってくる女性はお断り、ということらしい。つまり自分の能力を他者から評価されたいわけではなく、そういった非人格的な要素を全て剥ぎ取った生身の自分を評価されたい、ということなんだと思う。そうした無条件の、絶対的な人格肯定はたしかに快楽だろう。
ここで違和感がある。絶対的な人格肯定って他者承認と同じことなんだろうか?

モテたいけど、モテ要素を評価されるだけなのはイヤ、というジレンマ

たとえば非モテルサンチマンを感じるモテ系だって、そんな絶対的な人格肯定をしてもらっているわけではないだろう。自分の持つモテ要素(容姿・性格など)を評価してもらってるだけで、非モテが羨むような絶対的な人格肯定は別にないんじゃないか。まあ、モテ要素にも序列があって、金とか社会的地位とかよりも容姿・性格を好きだといってもらったほうが人格肯定されている気分にはなる。だけど、その容姿だって日々の努力の成果かもしれないし、性格だって生来のものではなく人為的にカスタマイズされたものかもしれない。生まれつきの、生身の人格とは、似ても似つかない商品的なもの。それがモテ要素じゃないか。容姿・性格に恵まれたモテ系だって、ただ単に自分のモテ要素が評価されているだけで肝心の人格が肯定されないことに虚しさを感じているかもしれない。
しかし非モテはそうは思わない。非モテの世界観においては、モテ系は人格を絶対的に肯定してもらっているのに自分にはなんで誰もしてくれないないんだろうという、人格肯定の格差が厳然として存在する。この絶対的な人格肯定という基軸通貨が流通した世界で、モテ系はその他者承認通貨を独占し、非モテはその他者承認通貨をえることができない。そういう世界観なのだ。

他者承認通貨をためこみたい非モテ

この他者承認経済において楽をするにはどうすればいいか。自分の気持ちを抑えて生身の相手を承認するなんてのはもってのほかだ。そんなことしてなんになる。損するだけじゃないか。ただ相手が生身の自分を受け入れてくれるまで待つべきなのだ。他者承認(絶対的な人格肯定)されたら勝ち組になれるというゲームだから、自分から他者承認するなんて負担以外の何物でもない。
だから非モテは、ひたすら生身の自分を肯定してくれる相手を待つ。他者承認通貨の奪い合いゲームに勝つには、それが合理的なのだ。絶対的な人格肯定に及ばない、モテ要素を評価されるだけの付き合いなんかには目もくれない。そんなところで妥協してしまったら損だ。

他者承認経済のフリーライダーたち

非モテの行動戦略は、公共財のフリーライダーと似ている。公共財を利用するだけ利用して負担を一切負わないのがフリーライダーである。一方、非モテは他者承認通貨を相手に与えることを一切せずに、相手が自分に他者承認通貨をプレゼントしてくれる幸運を願っている。
非モテフリーライダーの違う点は、フリーライダーがその戦略によって十分に得をしているが、非モテはその戦略であんまり得をしていないということである。たしかに生身の自分を絶対的に肯定してくれる人に出会えればペイするのだろう。
しかし、自分からは他者を承認しようとせず、ひたすら相手が自分を承認してくれるのを待つような人物を、絶対的に肯定するような奇特な人が、はたしてどれだけいるのだろうか?