オブ・ザ・ベースボール / 円城塔

2次元の世界に生きている人がいるとする。いや、「ラブプラス最高! もう3次元に用はない!」とかそういう話じゃなくて、純粋に平面上に生きている生物を想像してみてほしい。水面を移動するアメンボのような存在だ。そうした人は3次元をどのように知覚するのだろうか。突然現れてはわけのわからん動きであたりを引っかきまわす謎現象でしかないだろう。僕にとって円城塔はまさにそんな存在だ。
作品だけ読んでみても永遠に解読できないだろうと思ったので、「アラザル」という同人誌にのってる円城塔のインタビューを読んでみた。甘かった。この人たちは一体何を見ているのだろう。わけわからん。しかしなんだか楽しげであるし、知的なおもしろワードがぽんぽん飛び出すので読んでいて飽きない。とくに気になったのは時間に関して次のように語っていた箇所だ。

どういう文脈で「時間」を捉えるか、という問題はありますけど。でも、「時間」はみんな気になるはずで、大森荘蔵みたいなやり方が正しいのかとかね、そういう話ですよね。何か、大森さんのあの話はあんまり好きじゃないんです。議論が緻密になっていくんだけど離れていく感じが、コストパフォーマンスが悪い気がしてしまう。僕は常にコストパフォーマンスで考えるクセがあるので。議論と、説明されている対象の間のコストパフォーマンスが悪くなっていく、そこをうまい具合に切り抜ける方法がよくわからないですね。


何かを記述するときには、「できるだけ正確にやる」のと「できるだけ効率よくやる」のと2通りある。そこで正確さと効率のトレードオフがあるので、どちらかを犠牲にせざるを得ない。で、円城塔は効率の方を選ぶ、と。
では効率とはなんだろうか。それは最小のインプットで最大のアウトプットを得ることだ。作家にとってインプットとは作品であり、アウトプットは読者からの反響だろう。そう考えると、円城塔の作風はかなりコストパフォーマンスがいいのではないだろうか。
冒頭で述べたように、円城塔の作品はわけがわからん。しかしそのわけがわからなさは、作品に秘められた高次の構造が、小説という形態に投影されているだけで、隠された何かがあるのではないかと勘ぐらせる神秘さをともなっている。だから読者は円城塔の小説を読むことによってあれやこれやと想像して、これってこういうことなんじゃないだろうかという仮説を創造することができる。ここで重要なのは、隠された何かが本当に存在することではなく、いかにそれがあるかのごとく見せかける演出だ。円城塔もそうした演出に長けたはったり屋なのではないか。
そうした疑念を抱きつつも、その疑念が真実か否かを永久に解明できないであろう僕は、ヴェールの向こうの壮大さを期待して円城塔を読み続けるのであろう。