カラマーゾフの兄弟 2 / ドストエフスキー

人生の意味、神は存在するのか、キリスト教徒のあるべき姿といった話題が増え、京極夏彦「鉄鼠の檻」ロシア正教版みたいな感じになってきました。とくに長男なんかは関口に毛の生えた程度の明晰さしか持ち合わせていないくせに、その口上の長さときたら京極堂以上に饒舌で、行動力は榎木津並みというんですから手に負えない。次男は次男で、京極堂シリーズの犯人役かっていうぐらいに勝手におれおれ哲学を披露してくれるし、三男はわりとまともなんですがあいにくと修道僧なので憑物落としの役目は期待すべくもありません。一体この話どうオチをつけるんだろう。みんな暴走してます。でも面白い。以下ネタバレ。といっても事件らしい事件は何も起きていないんで、まだまだ導入部です。
まずカテリーナという長男のフィアンセを自負する女がいるんですが、こいつは長男を全く愛していないにもかかわらず愛していると言い張ります。で、その理由というのが、長男がどうしようもないクズ人間なので、そのクズ人間を上から目線で眺めたい、というものです。「わたしはあの人の神になる!」とか叫んで、まるで神のごとき慈悲でもって相手がどんなにひどいことをしようとも許すみたいな志しを立てるんですが、要するにたいして好きじゃないってことです。しかもそんな演説をかましておきながら、後でヒステリーになって倒れてしまうんですから、もうお前何がしたいんだよって感じです。身勝手すぎる。
次がイワンの自分語り。いかに自分がキリスト教を信仰し、またある意味では幻滅するようになったかをとうとうと語ります。まずは主人公アリョーシャとこの次男の会話を引用します。

「この世の人はみな、第一に人生を愛すべきだと思うんです」
「人生の意味よりも、人生そのものを愛するっていうことだな?」
「ぜったいにそうです。兄さんの言うとおり、論理以前に愛さなくちゃいけないんです。ぜったいに、論理以前に。そこではじめて意味もわかるんです」

要するに人生の意味なんて考えてもわからないし、それならまず人生そのものを好きになったほうがいいよな、ということです。そしてイワンは、これをキリスト教にも当てはめます。神の考えなんてわからないけど、神が創ったこの世界は好きだよ、と。しかし神を肯定するようなことを言っておきながら違うことも喋りだします。
「非ユークリッド幾何学を理解できないから、そういう形而上的な議論にも興味がない。しょせんユークリッド幾何学三平方の定理とか)しか理解できないのだから、自分にわかるのはそういう地上的なことだ。神の論理なんてこれっぽっちもわからない。だけどまだ幼い子どもが虐待され殺されている現状はどう考えてもおかしい。たとえ神の論理で、その子どもたちの虐待も救いに必要だっていうんなら、そんな救いはこっちから願い下げだ。純真な子どもが虐待されなくちゃいけない理由なんて何もないはずなのに!」と神への幻滅をあらわにします。
最後がゾシマ長老の説教です。人生最期の説教なので気合が入っているんでしょうが、やはり長い。キリスト教的な道徳論には眠気が差しました。

最後まで信じることだ。地上のすべての人々が邪道にはまり、おまえ一人だけが正しい道に残されることになっても、一人残されたおまえが犠牲を捧げ、神を讃えるのだ。

いや、それはもう自分ひとりが邪道だって考えたほうがぴったりくるんじゃないでしょうか。正義感も大切ですが、ここまでくるとちょっと引きます。
一方、回想シーンは面白かったです。軍隊時代に信仰に目覚めたこと、その顛末が社交界で話題になったこと、その話題を聞きつけとある財産家と知り合ったこと、この辺りは筆が滑らかというか、するすると読めました。財産家の描写がいいですね。過去に人を殺した事実に苦しみ、それをみんなの前で告白しようかしないかで悩んだり、いざ告白しようと決めても怖気づいてうだうだと日程を引き伸ばしたり、そんな自分が情けなくて自己嫌悪に陥ったり、かと思えば「こんなに自分が苦しまなくてはいけないのは、お前にこんなことを相談したせいだ。お前が悪いんだ」と責任転嫁したり、人間のウザい部分がよく描けてます。