ゼンデギ / グレッグ・イーガン

余命少ない主人公マーティンが、自分の死後も息子が周囲の環境に惑わされることなく、健全に育ってほしいと願い、そのために自分の脳のパターンを電子的に模倣する代理人格を作り、そいつに息子の指南役を任せる、という話。これはSFとして考えると地味だが、現代の技術から毛の生えたようなレベルの近未来を舞台にやるので、それはそれは大変なプロジェクトとなっている。脳の活動なんて電気信号と神経伝達物質のカクテルでしょ、いけるいける、全部物理現象だし、余裕でコピーいけるわー、……とかそんな感じにはなんらんのですよ、これが。だって、そもそも脳の状態と思考は、一対一で対応しているわけではなく、そのプロセスそのものが時と場合によって変化し続けるのだ。こんな複雑なパターンを、どうやってコードに落とし込めばいいのか。
それに、人類の一般的なパターンが仮につかめたとしても、ここで必要なのは、主人公を主人公たらしめている何か、なのだ。その人をその人たらしめている、固有のパターンを見いださない限り、それは父親を失った子どもにとっては、何の意味もないbotに過ぎなくなる。
主人公が、最後にできあがった仮想の人格を使い物になるかどうかテストするシーンがあるのだが、ここの盛り上がり方は本当にすごい。人は死を前にして、立派な墓を立てたりとか、本を書いたりとか、様々な形で自分の痕跡を残そうとするわけだけど、本書では、自分と同じように会話し、息子を励ますことのできるパターンを残そうとしている。それはbotが、人間のように振舞えるかどうかの試験であり、さらに言えば自分自分の化身と言えるかの試験であり、より細かく言えば自分の中の“良き父親”としての資質を抽出した上澄みかどうかの試験なのだ。
以下ネタバレ。
結局、マーティンの代理人格が、マーティン自身によるテストに合格したかどうかは曖昧になっている。マーティンは、アフガニスタンでの紛争で、民間人が斬首されて殺されたことに深い怒りと恐怖を抱えており、残酷な行動や、それの引き金となるような差別感情を毛嫌いしている。だから、代理人格が、たとえゲームの中とはいえ、息子が敵の首を斬るのを見て激怒し、悪態をつくこと自体は、まさにマーティンらしい行動ともいえる。だけど、当のマーティン自身は、多少失望しているようなのだ。こんなふうに感情的になり、罵ることしかできないような存在に、果たして息子を理性的な人間へと導く力があるのだろうか? と。
この代理人格の行動は、もしかしたらプログラムの過程が不十分だったからかもしれない。しかし、もともとマーティン自身が抱えていた弱さがそのまま出たにすぎず、プログラム自体は、正確にマーティンらしさを写し取っていただけなのかもしれない。仮に、プログラムが正確だった場合、マーティンは自分の“父親としてこうでありたい”という自己像と、現実の自分のパターンが食い違っていることになる。そして、マーティンは、代理人格がマーティンらしくふるまい、自分らしさがこの世に残ることよりも、代理人格が息子を導く父親役として適切であることを望んでいるようだ。自分という概念の中には、自然体の自分と、こうでありたい自分が混在して、こうでありたい自分が自然体の自分を否定しまうという葛藤が、代理人格というテクノロジーによって現実の二者間で行われてしまう、みたいな話なのではないか。
なんというか、やはりアイデンティティについて語らせたらイーガンは抜群に面白いなあ、というところである。