マインドフルネス認知療法―うつを予防する新しいアプローチ / Z・V・シーガル等

マインドフルネスとは、「意図的に、今この瞬間に、価値判断をすることなしに注意を向けること」と定義されており、精神医療の技法のひとつで最近盛り上がっているものらしい。何やら、うつに効果的であり、名だたる企業の研修にも採用されているというものらしいが、どうにも胡散臭い。非常に懐疑的な姿勢で、とりあえずこの本を読んでみたので、その解釈に誤りがあってもご容赦いただきたい。


目標未達という病

人間、誰しも、こうでありたいという理想像を持っている。そうした理想の状態にどれだけ近づくことができるかが、その人の人生の価値を定めているとっても過言でないほどだ。しかし、その目標に届いていればいいのだが、我々はみな凡人なので、なかなか難しい。また、簡単に手に届くような目標を設定すること自体、意識の低い、怠惰で、非生産的な行為だとみなされる可能性が高い。なので、目標は常にチャレンジングなものとなってしまう。
さて、目標未達の状態は、当然に是正されるべき「良くない」状態である。自分がそこにとどまっているのは恥じるべき状態であり、目標に向けた速やかな行動が求められる。ここでは、「どうすれば目標が達成できるか」に意識は集中しており、そのために「自己を常に監視・評価する」必要がある。そしてこの自意識の息苦しさこそ、うつの原因となっている、らしい。本書では、この状態を「すること」モードと呼んでいる。

目標未達解消へのアプローチ

どうすれば、目標未達を解消できるだろうか。一つの方法としては、目標を見直す、ということだろう。誰しもええ格好しいなので、ついつい高い目標を立ててしまうものであるが、そもそも、そんな高い目標は必要なのか? と問いかけること有効だ。周囲の期待、社会の空気、さまざまな要因によって作り上げられた目標は、本当に自分が心の底からやりたいことで、どうしても必要不可欠なものなのだろうか。もう少し別の目標でも、自分の心の平穏を達成するためには十分なのではないだろうか。そのような問いかけと思考によっても、目標未達は解消されうる。
ただ、こうしたアプローチは唯一ではない、と本書は主張する。言葉を操作し、目標そのものを変更するアプローチではなく、目標未達の自分という状態を極力意識せず、自意識の重さそのものを脇にどかすことを習慣づけよう、というアプローチだってありうるというのだ。これが、マインドフルネスらしい。実際に、このアプローチではうつ再発率が有意に低下する、という実証研究がある。

「すること」モードから「あること」モード

目標未達に苦しみ、その解消に躍起になっている状態を「すること」モードであるとすると、マインドフルネスな状態とは、やるべきことも、行くべき場所もない状態である。目標そっちのけで、ただ、「今ここを、直接的、即自的、親和的に体験すること」らしい。これを「あること」モードとも呼ぶ。「あること」モードでは、体験は、目標への有効性という観点から全てが一義的に評価される「すること」モードとは異なり、「瞬間瞬間にあるユニークなパターンの豊かさを味わう」ことらしい。

フロム「自由からの逃走」

そういえば、似たようなこと以前に考えたことがある。フロム「自由からの逃走」の書評を引用する。

フロムによれば、近代人は自由になったが孤独になった。この孤独から逃れるために近代人は「個人的自己からのがれること、自分自身を失うこと、いいかえれば、自由の重荷からのがれること」*1  を望んだ。これが全体主義の起源であった。しかし、ここで問われている「自己」の定義がいまいちはっきりとしない。自分自身を失いたいのならさっさと首でも吊ればいいのである。そうはせずに思考停止に陥って全体主義の歯車と化したいというのだから、ここではやはりもっと正確な定義を与えるべきだろう。


僕は、「自己」は視線だと考える。それは、外部から存在としての「わたし」を眺める想像上の視線なのだ。まったく意味がわからないだろうけどもうすこし話をきいてほしい。この話はそもそも自己とか自我とか心なんていうものが、なぜ生まれたのかということにさかのぼる。はっきり言って意識・心なんてものは生きていく上で必要ない。ではなぜこんな心なんていう、生きていく上で面倒な性質を身体は獲得したのだろうか。「サイエンス・イマジネーション」収録のエッセイで、生物言語研究者の岡ノ谷一夫は「自己」は適応の結果偶発的に生まれたものだという仮説を立てていた。


その適応とは、他者の行動を予測する、という能力の獲得だ。その場しのぎで場当たり的に対応するよりも、事前に「相手はこういうときにはこういうことをしそうだ」と予測することは自己の生存に有利に働く。狩りをする動物にとって獲物の行動を予めシミュレートすることは合理的だろう。人間は一人で狩りをせず、仲間と共同で生活するので、同じ人間の行動を予測することも合理的だ。そのように適応して当たり前とさえ言える。


では、この行動の予測が他者に対してではなく、自己に向けられたらどうだろう? 自分がどういう状況でどういう行動をするのか、そう考え始めたときにはじめて、その脳は「自己」とか「意識」とかを生んだのではないだろうか。自分がどういう行動をするのか・どのように感じているのか、そういったことについて意識すること・考えること・予想すること、それこそが心なのではないだろうか。


この仮説は心がどのような機能を持っているかに答えているだけで、そもそもそうした予測を行っているものは究極的に何なのかには答えていないように思える。しかし、心がどのようなあり方で「自己」を生みだしているかをはっきりさせている点で有益だ。「自己」とは世界を認識する主体として構成されているのでなく、むしろ世界の内部で這いつくばる一個の対象として(仮想の外部から)視認されている。とすれば、必然的に「自己」とは有限なものとして発見されることになる。ただ本能のまま自然に動き出す身体には、圧倒的な世界のみが見えており、自己はどこにも見出せない。しかし、ひとたび自己に対して視線が向いてしまえば、大きな世界の中を這いつくばるみじめで小さな自己を発見してしまう。え? つーかおれ死ぬの? マジかよ勘弁してくれよ。そういった死への恐怖も生まれる。永遠で広大な世界に対する、ちっぽけで儚い「自己」への視線を止めることができるのならば、「わたし」はどんな代償だって支払うだろう。

もう「わたし」とか自意識とかが重い。ただ日を生きたい。いや、ただ日が在りたい。ただ、そこにあるだけの現実を、ただ端的にそのまま在りたい。
……ということなのではないだろうか。

*1:170p