大胆すぎる未来予想
50年(以上)未来に向けた課題
(中略)
環境・社会⇔身体⇔神経系:相互作用と秩序形成・変化の情報・物理学統合理論:統一通貨で行動・認知の全体を理解。環境激変のもとでも維持されうる人格・自己同一性とは?
・全人的コピー(脳のソフトをコピーという昔の概念ではない):人口過少、多数の自分、永遠の存在
國吉康夫(東京大学情報理工学系研究科)
これだけだと何を言ってるのかさっぱりわからないので解説します。まずヒトってそもそもなんなんだろうかってことからはじめましょう。デカルトなんかに言わせれば「我思う。ゆえに我あり」ですから、とりあえず自分の意識・心がヒトの本質だということになります。この精神至上主義はSFにも受け継がれており、とりあえず脳内の意識さえ電子的にコピーできれば、そのコピーも人格をもったヒトだって言えるよね? という作品はけっこう多い。
だがちょっと待ってほしい。本当に脳内の意識がヒトのすべてなんだろうか? そもそも意識というものは身体の感覚器官を通して外部の環境を認識し、その環境の中で自分の身体でもって行動する。そのフィードバックが意識の大部分を決定していて、意識それ単体だけポンと取り出しても機能しない、という可能性があるんじゃね? というわけでヒトの身体性も再現できなきゃ話にならん、ということになります。逆に意識なんてなくても身体性さえ再現できれば十分に「生きてる」っぽい行動が生まれたりします。
脳科学が発達すれば意識をどんどん科学的に記述できるようになります。またナノテクの発達でそのうち生もので計算できるコンピュータなんかも生まれるでしょう。この2つをつないで身体性の概念もぶちこんでミックスすれば全人的コピーが実現するかもしれない、らしいです。しかも50年とか100年とかそんな年単位で。つーか不死じゃん、「永遠の存在」なんて。そんなこと真顔で言えるほど科学って進歩してるんだなあ。死ぬのが怖いので実現してほしいとは思うけど、全人的コピーで自己同一性が確保できるか不安なので、従来的な医療の発達のほうも期待します。
心の起源
あと心がどうして生まれたかについても興味深い話がありました。そもそも意識・心なんてものは生きていく上で必要ありません。ではなぜこんな心なんていう生きていく上で面倒な性質を獲得したのでしょうか。それはある適応的な能力が原因です。
つまり、他者の行動の予測です。その場しのぎで場当たり的に対応するよりも、事前に「相手はこういうときにはこういうことをしそうだ」と予測することは自己の生存に有利に働きます。狩りをする動物にとって獲物の行動を予めシミュレートすることは合理的でしょう。人間は一人で狩りをせず、仲間と共同で生活するので、同じ人間の行動を予測することは合理的です。そのように適応して当たり前といえます。
では、この行動の予測が他者に対してではなく、自己に向けられたらどうでしょう? 自分がどういう状況でどういう行動をするのか、そう考え始めたときにはじめて「自己」とか「意識」とかが生まれたのです。自分がどういう行動をするのか・どのように感じているのか、そういったことについて意識すること・考えること・予想すること、それこそが心なのです。
それは不幸にも自己の有限性にも気づいてしまうことでした。ただ本能のまま自然に動き出す身体には、圧倒的な世界のみが見えて、自己はどこにも見出せません。しかしひとたび自己に対して視線が向いてしまえば、大きな世界の中を這いつくばるみじめで小さな自己を発見してしまいます。え? つーかおれ死ぬの? マジかよ勘弁してくれよ。そういった死への恐怖も生まれます。永遠で広大な世界に対する、ちっぽけで儚い自己の精一杯な抵抗が宗教であり科学です。
自己の有限性への絶望と、世界の無限性・全体性へ回帰したいという渇望が、私たちを縛っていると言ってもいいかもしれません。こうした視点で歴史や文明をふり返ってみると面白いかも。心理歴史学への第一歩です。ただ心の起源はいまだに謎とされており、今回紹介したのも仮説に過ぎないので注意が必要です。また、たとえ心の起源が解明されたとしても、それだけで歴史のすべてを説明できるわけではありません。ヘーゲルなんかは自由が徐々に拡大する過程が歴史だとか言ってますが、一元的で乱暴な議論だと思うし。
各短編SFのレビューは以下。粒ぞろいで短編集としてみてもかなりハイレベル。