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実用書
堀栄三「大本営参謀の情報戦記」
なにか大きなプロジェクトをやろうと思ったら、当然情報を収集して現状分析したうえで仮説を立てとりあえず実行してみて、結果を確認し、思わしくなかったら計画を修正する、というサイクルを回していくものなのですが、日本国史上最大のプロジェクトであった戦争において、それがまったくできていなかったということを示すのが本書。陸軍と海軍で情報収集の段階から分断されていたり、現状分析と作戦立案部署がなんかよくわからん慣習によって認識のすり合わせをしていなかったり、客観的にみてどう考えてもおかしいわけなんですよ。このあたりの組織の生々しい描写がよかったです。「失敗の本質」や「未完のファシズム」なんかとあわせて読みたい。斎藤環「生き延びるためのラカン」
ラカンの入門書。精神分析という学問が有効かどうかはさておくとして、読み物としては面白いです。一例としては、欲求は満たすことができるけど、欲望を完全に満たすことができない、など。これ、けっこう何いっているのかよくわからないと思うんですけども、前提として、僕たちが欲望しているものは、常に他人が欲望しているもの、という事実があります。
例えば、いらないので捨てようと思ったオモチャを、「いらないならちょうだい」と言われると、とたんに惜しくなる。
わかる。これをラカン風にいうと、欲望(の対象)は、他人の欲望(の対象)、というふうになります。じゃあ、他人の言うことには極力耳を貸さず、自分の生理的な欲求だけ目を向けていれば自分らしく生きられるのではないか、ということになるのですが、ラカンは「それは無理」というのですな。なぜなら、こうして今あなたが読んでいるこの文章や、今のその思考は、言葉によって記述されていて、そして言葉というのは常に「他人」のものなのです。自分だけのマイ言語を持っている人は別かもしれませんが、とにかく、言葉を通して世界や、その意味を認識している限り、他人の欲望からは自由になることはできません。しかし、少なくとも言葉がそうしたものであることを自覚しておくことは、役に立つこともあるかもしれません。
余談ですが、長谷「allo,toi,toi」(「My Humanity」収録)は、ロリコン治療小説なんですが、ラカン的な問題意識で書かれていますね。言語は僕たちの「好き嫌い」を把握するには粗すぎて、言語によって思考すればするほど本能的な欲求からくる「好き」とは別の、思い込み・妄想によって造られた「好き」が形成されてしまうのです。本来、「好き」という感情は生存を有利にするプログラムであったはずです。危険なものを「好き」になってしまう個体は滅びてもはや生存していません。しかし、言語の使用によって文化的社会的に造られた「好き」は、淘汰の圧力を受けていないので、危険なもの・生存を不利にするものも「好き」と形容してしまうリスクがあるのです。要するに、お前の「好き」って生身の欲求から来るものよりも社会や文化によって後発的にそう思い込まされてるだけの、そういう「好き」ってことなんじゃないの? という話ですね。
横山昭雄「真説 経済・金融の仕組み 最近の政策論議、ここがオカシイ」
実務(金融調節の現場)からみた金融政策の基本的な仕組みの解説。鼻水が出るほどわかりやすい。マネタリーベースが増えるからマネーストックが増えるんじゃない。資金需要があるから貸出が増えて、その貸出金は必ずどこかの銀行の預金になるので、同時に預金も増えて結果としてマネーストックが増加するだけなんや……!早川英男「金融政策の「誤解」」
ではなぜマネタリーベースを増やす量的緩和が有効たりえるかというと、為替市場において「マネタリーベース増加→通貨安」という根拠なき関係を信じている市場参加者が一定数いるから、と主張するのが本書。たとえそれがマクロ経済学の誤解に基づくものであったとしても、その誤解に働きかければ、通貨安→輸入物価上昇→物価上昇、という現実の結果を引き出せるはず、という一種の賭けだった、という見立て。岩村充「中央銀行が終わる日: ビットコインと通貨の未来」
FinTechブームということで、この辺なんかもおさえておきたい。量的緩和の次にどんな景気刺激策がありうるのか、という思考実験もできたりします。フィクション
町田康訳「宇治拾遺物語」
俗すぎる文体によって成し遂げられた、あまりにもみずみずしい古典の新訳。「宇治拾遺物語」は、今となっては文学として近よりがたくなってしまったが、要は当時の巷で受けた2chまとめブログみたいなものであり、こういう文体で、肩ひじ張らずに楽しむというのがやはりよいのではないか、とこう思うわけですな。とりあえず、「こぶとりじいさん」の新訳でも読んでやってください。