フェイスブックに浸食された村社会でお互いに「いいね」を送りあう気持ち悪さに耐えかねて自殺、とみせかけて社会を丸ごと殺しにかかる――ハーモニー(劇場版)

会話が多すぎてやばい、画面が動かなすぎてやばい、と評判を聞いて観る前は不安でいっぱいだったんですが、想定以上によかったです。絵は奇麗ですし、やはり原作の設定の良さがいきていますね。プライバシーが消失した近未来の管理社会が舞台で、誰もが自分の評判を気にして生きており、他人から「いいね」をもらうためにやさしく振舞おうと努力せざるをえない。フェイスブックを開かなくても拡張現実によって、リアルでその人を認識した瞬間に、その人の評判がわかるようになっており、もう本当にうっとうしいし、うんざりするような社会なのです。
そうした息苦しさから逃れるために、自分の身体は公共のためのリソースなんかじゃない、社会に飼いならされた豚をやめて自分の身体は自分のものだと宣言しよう、などと主張するテロリストがでてくるのも自然です。まあ、そのテロリストの真意は全く別のところにあるわけですが……。とにかく、中盤まではかなり引き込まれました。終盤のラスボスのスピーチも心にぐさっと刺さってきてよい。「屍者の帝国」を超える面白さです。
以下ネタバレ。
屍者の帝国」が原作にない勢いでホモホモしかったわけですが、「ハーモニー」は百合百合しかったですね。どうしてこうなった。まあ、別にそれ自体は良いも悪いもなくニュートラルなものなのですが、こいつのおかげで、主人公がミァハを撃つ動機がよくわからなくなっているんですよねえ。たしか原作では、人類がみな幸福になれるんだったら、まあいまさら否定はしようがないけど、でも父親を殺したお前だけは許さない、絶対にだ、という感じで、「わたし」消滅の前に、最後の最後で個人的な私情をもちだしてきて、「わたし」としてやりたいことを全うさせる、という「わたし」の悪あがきという側面があった気がするんですよ。それが映画だと、主人公がミァハを愛している設定になっていて、「わたし」が愛していたミァハはそんなこと言わない! → 殺す。 ということになっていて、えええええ、いや、それでいいのだろうか、という疑問がぬぐえない。まあ、原作も唐突だったんだけど、映画のほうがよりクレイジーですわ。