フランケンシュタイン博士の怪物の婚活のせいで人類存亡の危機――屍者の帝国(劇場版)

観てきました。なかなか面白かったです。とにかく19世紀のロンドンの風景が素晴らしく、ターナーの絵画のような背景が動いているのを見るだけでも感動があります。話としては、ゾンビが工業製品と普及している19世紀が舞台で、産業革命が蒸気の力だけじゃなくてゾンビの労働力によっても達成されている世界です。そんな中、爆弾内蔵ゾンビの自爆テロが起きたり、人間に近い動きをするゾンビが出てきたり、ゾンビだけで構成される独立国家が現れたり、なんかいろいろきな臭いことが起きるんですが、そういう序盤のワクワク感を豪快に吹き飛ばしながら、後半にわりかし深淵なテーマに移行していきます。
というのも、主人公ワトソン君は、世界情勢のごたごたには実はあまり興味がなく、ただひたすら、夭折した友人フライデーの魂を復活させることにしか興味がないマッドサイエンティストなんですね。なので、序盤のスパイアクションものがずっと続くのかとワクワクして待っていたら、それはそれとして続くのだけれども、お話しの本筋としては、ゾンビは生前の魂を再び得ることは可能なのか、そもそも魂とは何なのか、みたいな話になってきています。まあ、この二本立てというか、両輪の輪でがーっと攻める、というのも、大変味わい深いんですが、ちぐはぐ感が無きにしも非ず。世界の存亡がかかっているごたごたの中で、ワトソン博士のフライデー(屍者)に対する異常な愛情がちょっと際立ってしまってまして、すまないホモ以外は帰ってくれないか!という感じです。ええ。
あと、この登場するゾンビの中で唯一、魂を得ることのできた、最初のゾンビ「ザ・ワン」の行動原理もかなり謎なんですよねえ。元ネタのフランケンシュタイン博士の怪物が、花嫁を欲しいと頼んだのに断られてショボーンとなったことを知らないと、何がしたいのかよくわからないんじゃないかと。ザ・ワンさんの、自分を迫害してきた人類に対する復讐と、婚活という動機が作中ではほとんど描かれていないので、やや唐突感があります。
そしてラスト。原作の小説でもよくわからなかったので、映像化には期待していたのですが、やはりわけがわからなかった。高度の演算そのものが物質化する、というのだけはなんとなく伝わってきましたが、そもそもその理屈もよくわからないし、そもそも演算を物質化させてなにかいいことがあるんだっけ? という疑問がぬぐえない。ただ、おそらくこういうことなんじゃないかとは、思います。まず、魂は情報の塊である。しかし、それはかなりの大容量なので、通常の解析機関では無理。作中におけるスパコンみたいなハードウェアと、天才ヴィクター・フランケンシュタイン博士の書いたソフトウェアを使って初めて、シミュレート可能な代物。そして、ラストでは魂の演算に成功している。その結果、フライデーも魂の獲得に成功している(ので、自分の意思で敵を倒す、という主体的な行動を取ることができた)。この点、補足すると、フライデーは日本でのヴィクターの手記インストールによってある程度、生前の記憶の再現には成功している(なので、ペンを手の前にとってトントンすることができた)が、それを上書きするような形でザ・ワンのウィルス的ネクロウェアに支配されているので、わーきゃー叫んで人を襲うことしかできなかった。が、それらの既存のソフトウェアをさらにすべて上書きされる形で、魂のインストールが終盤に起こっている模様。なので新生フライデーは、ワトソン君にたいして「やあやあ、生き返らせてくれてありがとう」なんて言わない。
では、新生フライデーは何を言ったか。彼はこういうのですね。「大量の情報を詰め込んでくれてありがとう。その情報が物質化したものとして、わたしは、ここにある。そして、わたしのこの思いが情報として伝わり、それがなんらかの形で物質化されることを祈る」(意訳)。新生フライデーは、ワトソン君が望んだ形かどうかはともかく、魂を得た。そしてそれは、ワトソン君が彼に命じた、すべてを記録しろ、という命令のおかげで、大量の情報をインプットしたおかげでもあった。意識の閾値を超えたのは、最後のスパコン解析機関による情報の洪水であったかもしれないが、その場にフライデーを連れて行ったことも含めて、ワトソン君の功績は大きいだろう。
そして新生フライデーは、自分が物質化された情報であることに意識的であるので、自分の物語を他者に伝えることで、自分をほかの媒体の上に生き延びさせようとしているのかもしれない。親からDNAを受け継いだ子が、その本能として、自分のDNAを残すことに必死なように、新生フライデーは、自分の情報こそが自分の本質であり、それを残すことを非常に重要視している。作中世界では、新生フライデーは007としてスパイ活動に従事することになるので、彼の情報は実際に数多の身体へと受け継がれることになるのだろう(これによって、ボンドシリーズで複数のボンドが存在するネタへとつながる。彼らはすべて同じソフトウェアが物質化した存在)。
さらに言えば、原作小説自体が、死せる伊藤計劃が生ける円城塔を走らせた結果であり、伊藤計劃の遺志という情報が、円城塔という媒体を通して物質化している、と言えなくもない。さらに原作小説の情報は、アニメ製作会社を通して、こうして劇場版という形で物質化した。そしてその先は、この映画を観た観客たちが、なんらかの形でその情報を物質化していく、ということになるのだろう。ちょうど僕が、今こうしてブログを書いているように。この流れそのものが、Project Itohなのだと、伊藤計劃の魂なのだと、新生フライデーは暗に語りかけているように思える。