ブラック・スワン―不確実性とリスクの本質 / ナシーム・ニコラス・タレブ

経済学を批判してドヤ顔したいなら、終わコンのマルクスなんか読むよりもタレブを読んだほうはずっとよい。なにせタレブの射程は、経済学などというマイナーな学問領域に留まらず、経験科学全般に及んでいるからだ。
それは、帰納の問題である。僕たちが真理と呼んでいるものは、しょせん今までの観測データを無理なく説明できるだけの「お話」にすぎない。原理的に、過去だけしか観測できない以上、いまだ見ぬ未来については予想することしかできない。
また、観測の精度の問題もある。人類の到達していない銀河の片隅では全く別の法則で宇宙が作動しているかもしれず、僕たちの物理法則は真理といよりもむしろローカルルールに近いものかもしれない。
だがそのような不確実性を考慮に入れると、何も行動できなくなってしまうので、とりあえず今手元にある中で一番もっともらしい仮説を、科学的な真理という美称で表現することにした。しかも、不確実性をまったく考慮に入れないと理論として格好がつかないので、とりあえず過去のデータの変動内の波乱はこれからも起こりうると想定し、そのような意味で危険(リスク)は管理できる、という仮説が流行した。
これがまずかった。なぜかというと、科学はリスクを管理できても不確実性を管理するようにはできていないからだ。不確実な領域があるということはとりあえず脇に置いて、過去のデータからとりあえず導き出せる結論を絶対の真理だと言いきってしまい、その場その場をしのぐ、場当たり的な行動指針が、科学なのだ。
だから金融理論家が科学的に安全だといっても、相当あやしく、実際にとんでもなくあやしいことが先の金融危機でわかった。
とはいえ、だからどうした、という話でもある。リスク管理できても不確実性は管理できないよ、とか言われても、企業内のリスク管理担当の人は困るわけである。なにかしらの対応はしなければならず、とくに上司に「なにかしらの仕事はした」と査定してもらいたい人は、それが鰯の頭であれ金融理論であれ、とりあえず使わざるをえないのである。問題は、その道具の有用性だ。
物理学者の金子邦彦は「カオスの紡ぐ夢の中で」において次のように述べた。

世界の多様な状態をすべて受け取って情報処理することは有限の我々が有限時間で行うことは当然無理だから、何らかの偏見を持って世界を捉えることになる。これが広い意味でモデルを持って世界を見るということになる。

帰納の問題は有限の僕たちには克服できない。ならば、より有用な偏見を持とうと努力するだけである。偏見に対して「それは偏見にすぎない」とか言ってドヤ顔している場合ではないのだ。