日本辺境論 / 内田樹

日本人は他国との比較でしか物を語れない、軍事や国際関係について語るときも常に被害者のロジックで語る、つまり世界の中心に自分を置かない民族だというのが本書の主張です。とくに面白かったのは、第二次大戦の敗戦後「私は開戦方針を主導した」と名乗る人間が一人もいなかったことについての言及です。しいて挙げれば「國體(こくたい)」が理念上の主体として戦争をしたわけなのですが、この國體が何を意味するかのコンセンサスはまるでありませんでした。

「ここで驚くべきことは、あのようなドタン場に臨んでも國體護持が支配層の最大の関心事だったという点よりもむしろ、彼等にとってそのように決定的な意味をもち、また事実あれほど効果的に国民統合の『原理』として作用して来た実体が究極的に何を意味するかについて、日本帝国の最高首脳部においてもついに一致した見解がえられず、『聖断』によって収拾されたということである。」
それどころか、その「聖断」が果たして國體を完うするものであるかどうかをめぐって、軍部は「承認必謹派」と「神州防衛派」に分裂したのでした。「神州防衛派」は國體の本義が何であるかを決定する権利は政府にも天皇にもない、誰にもないと主張したのです。*1


中心が空虚でも、それなりに社会は回ってしまうし、むしろ中心が空虚だからこそ連帯できる、というのは面白い。誰にも、そのルールの詳細を決定することはできないが、しかし誰もがそのルールに従うべきという考え方は、ある意味ハイエクのノモスの概念に近いかもしれませんね。まあノモスは自由主義のルールなので、戦争を始める主体にはなれませんが。

*1:52p