J.Mark Ramseyer“Law and Economics in Japan” 要約

要約はかなり適当。原文はこちら。 

1 大学という法人の所有者は誰か

1.1 大学教授という立場
大学は法人であり、ひとつの経済主体であります。ですから通常の営利企業と同じように何らかの財の売り手であるといえます。そこで以下では大学がどんな財を提供し、その財の買い手である市場はどんなものであるか、そもそも大学という組織を企業と同じように扱っていいのか、を説明していきたいと思います。

法人である以上は、その法人の所有者がいます。株式会社のオーナーは株主でありますが、大学のオーナーは一体誰なんでしょうか?
大学教授陣は「自分たちは大学の従業員ではない。自分たちこそが大学そのものなのだ」と言いますが、実際は単なる従業員にすぎません。理事会と彼らが選ぶ学長によるトップダウンの経営がハーバード大では行われているようです。Senior professor(教授)が実質的に経営しているような、ボトムアップの経営スタイルの大学もあるようです。その場合学長は教授陣のいいなりです。


1.2 大学に対して自益権を有しているのは誰か
さて、教授は大学の従業員ではないことはわかりましたが、だからといって大学のオーナーというわけではありません。株式会社のオーナーである株主は会社財産を法的に所有し、事業の収益を受け取る権利*1  、会社を経営する権利*2  などが与えられています。しかし、教授は大学の財産にたいして配当を要求する権利を有していません。
結局、大学という法人のオーナーは誰でもない、ということになります。
(とはいえステークホルダーは教授・生徒・政府をはじめ、たくさんいますから、健全な経営をするインセンティブはそれなりにあると言えるでしょう。ステークホルダー経営ここにあり。)

2 大学はどんな競争圧力に直面しているか

2.1 大学はどんな財の売り手なのか
組織のキャッシュフローにたいしてEquity(持分)を主張する人がいないとしたら、その分だけ営利企業よりも大学教授は競争圧力にさらされていないということになります。
とはいえ大学教授も霞を食べて生きているわけではありません。学生から授業料を徴収し、そこから日々の糧を得ているのです。ということは学生という消費者にたいして、教育サービスを売る供給者の役割があるはずです。ですから、他の大学との学生獲得をかけた競争があるのです。また研究サービスを売る供給者としてみることも可能です。成果を上げられないと補助金や投資を打ち切られて研究所を閉鎖せざるをえないわけですから、研究面においても競争があります。


2.2 営利企業との比較
とはいえ、競争の厳しさはやはり営利企業が直面しているそれと比べると、かなり甘っちょろいと言わざるをえません。結果として、正しい経営をするインセンティブは普通の市場環境と比べて低くなっています。普通の市場では放漫経営をする企業ははやばやと淘汰されていきますが、大学市場においてダーウィン的淘汰が起きるスピードはかなり遅いのです。
その理由は(1)従業員(教授)の終身雇用 と(2)政府の補助金 の2つです。だらしない講義をしてもすぐにクビにならない身分では、サービスの質の向上は期待できません。また政府から補助金がもらえるのなら、必死になって効率的な経営をする必要はありません。(どちらも極東の島国において経済が停滞している理由に挙げられるものですね。)


3 なぜ「法と経済学」の伝播が各国によって異なるのか―――Garoupa & Ulen説

Garoupa & Ulenは、学問の伝播のペースは学問ごとによって異なると主張しています。
つまり「法と経済学」の伝播のペースを説明する要因では、ひも理論の伝播、変形文法のブーム、デリダの受容具合などを説明することができないのです。
しかし、学問の伝播ペースを説明できる統一理論がなかったとしても、「法と経済学」という個別のケースについて、なんらかの説明をすることはできます。Garoupa & Ulenは、3つの理由をあげています。
それぞれ、(1)法体系の伝統の違い、(2)教授の出世ルール、(3)国ごとの大学間競争の激しさの違い、です。


3.1 法体系の伝統の違い
「法と経済学」の受け入れられ方の違いは、common-lawとcivil-lawの違いで説明できると主張する向きもあります。しかし、彼らの主張は2つの法体系のステレオタイプな見方を強調して、だから「法と経済学」においても受容のされ方が違うのだというだけで、あまり説得的ではありません。そもそも2つの法体系の違いというのも、多くが学者の頭の中だけにあるようなものでして、反証可能性がない「お話」でしかありません。

では、どういうような説明だったらいいのでしょうか。とりあえず、ヨーロッパ大陸の法体系がなぜ「法と経済学」を避けたのかを説明出来たら、日本での「法と経済学」の伝播についても説明できるはずです。なぜなら、日本は英米法よりも大陸法の影響力が強い国だったからです。1970年までは、日本の法学者はフランス法やドイツ法を勉強していましたし、翻訳される論文も大陸法のものが中心でした。
しかし現在では英米法の影響力が強くなっています。訳されている論文の数でみても、それがわかります。

ではなぜ英米法の影響力が強くなってきたか、というと、それはこの論文では説明されていません。



3.2 教授の出世ルール
大学内部の昇進規則は、教授の行動インセンティブを左右しています。
たとえばイスラエルでは法学部の教授は英語で論文を書かないと大学内で評価してもらえません。ここは他のヨーロッパの大学とは違うところです。しかも英語圏の法学雑誌は伝統的なイスラエル法の研究論文なぞ載せたくありませんので、しかたなくイスラエルの法学者は英米法について論文を書くしかありません。とはいえ、それだったらイギリスやアメリカにいるライバルに勝てませんので、既存の法体系を知らなくても論文が書ける「法と経済学」がブームになったのです。
日本はヨーロッパと近いです。日本の法学者たちは英語で論文を書くことを求められていません。彼らにしてみれば、自分たちはアメリカ法の研究者ではなく日本法の研究者なのだから、日本語で書くのは当然というわけです。また英語で論文を書くと、英語圏のライバルが有利ですから、あまり乗り気になれないのかもしれません。
とはいえ数学や経済学では英語で論文を書くのは当たり前になっています。

結論としては、日本の法学者は英語で論文を書く必要が無いから、「法と経済学」という非英語圏の法学者でも戦えるフィールドを選ぶ理由がない、ということになります。


3.3 国ごとの大学間競争の激しさの違い
大学同士の競争の激しさは、国によって異なります。これが「法と経済学」の伝播ペースの違いを説明する理由になります。


3.3.1 学生同士の競争
まず日本の受験環境について見ていきましょう。これは1970年代には「受験地獄」と形容されるほど、熾烈なものでした。空前絶後の無慈悲な競争であるという声もありました。大学は全国から優秀な学生を募集しており、大学間の競争が長らくあってきたのです。
たいして、アメリカの受験環境は、地理的にも社会的にも、ローカルなものにとどまっていました。もともと優秀な人が大学に行くというよりは、社会的エリートがとりあえずいく場所が大学という風潮がありまして、受験競争が全国規模のものとなったのは1950年代以降のことです。
実際にハーバード大の入試スコアを見ましても、1960年には平均点が上がっており、全国から優秀な学生が詰めかけてきたのがこの時代以降ということになります。



3.3.2 教授になるための競争
日本でもアメリカでも、大学教授はその大学の学生からなるということがあります。たとえば東大法学部では81人中39人が、最初のキャリアとして東大で授業を受け持っており、24人はほかの大学や東大の他学部からやってきています。東大法学部は自分たちの大学の法学部生を採用する傾向にあるようです。たいして、東大経済学部では他の大学でPh.D.をとった人材を採用する傾向にあります。


4 なぜ「法と経済学」の伝播が各国によって異なるのか―――Ramseyer説

ようやくRamseyerの自説が展開されます。まず、大学には通常の市場の制約がありません。大学内部には一定の構造や力学が存在しますが、それ自体は市場ではありません。要するに市場とは、外部の誰かに価値を提供するための競争なわけですから、内部の問題は市場ではありません。
さて、Ramseyerは「法と経済学」の伝播が各国によって異なるのか、という問いにいくつか答えを述べています。


4.1 リチャード・ポズナーの存在
アメリカではリバタリアンのポズナーが法学部の教授になり、なおかつ裁判官にもなったという「事件」が起きましたが、日本では起きていません。


4.2 学部同士の不信感
日本では法学者と経済学者がお互いに「あいつらは胡散臭い」と思い合っているという事情があります。とくに学部の入試難易度の差がこの傾向に拍車をかけています。たとえば東大では法学部のほうが経済学部よりも入試の偏差値が高いので、法学部の学生は「経済学部でやっていることなんて、どうせたいしたことないんだろ」と思ってしまうかもしれません。より難関の学部に入った自分たちが学んでいる方法論こそが至高で、他学部の方法論にたいして懐疑的になってしまうかもしれません。この構造は学生にも教授にもあてはまります。
この学部同士の不信感が、日本の場合アメリカよりもひどいので、「法と経済学」の受容が日本では遅れたということは可能でしょう。ただし、「学部同士の不信感」などというあいまいなものは計測が困難なので、やはり反証可能性のない「お話」にすぎないかもしれません。


4.3 学部のカリキュラムの違い
日本では法学部というものがあり、学部の段階からみっちり法を教わります。カリキュラム的に他の科目を取ることは可能ですが、あまり枠がないために、どうしても経済学の勉強はできなくなっています。
たいして、アメリカでは学部の段階で法は教わりません。ロースクール(院)にいってからはじめて法を学ぶのです。代わりに学部では「現象をどのように捉えるのか」という方法論・メソッドを勉強します。つまり、経済学・社会学・心理学などの「現象をどのように把握し、解釈するか」の理論的アプローチを学ぶのです。そしてそのアプローチでもって現象としての「法」を学びます。
そもそも法というものは「現象をどのように捉えるか」という方法論ではなく、「現象それ自体」です。異なる利害をもった人々が、自らの利益を実現しようと政治的な駆け引きにはげんた結果として生まれた、暫定的な結論なのです。しかし法学者は経験的現象であるはずの法を理論的アプローチと混同することがありえます。本当は「法という現象は法以外の方法によってしか理解できない」と教えた方がいいのですが、そうは教えません。


4.4 他学部の教授を雇わない
4.2 学部同士の不信感で述べた理由から、法学部は他学部の教授を雇わない傾向にあります。


4.5 マルクス経済学
マルクス経済学の影響が強く、「法と経済学」の基礎である新古典派経済学の影響が少なかったことも、日本で「法と経済学」が流行しなかった原因です。


5 なぜ「法と経済学」の伝播が各国によって異なるのか―――誰得説

5.1 もしも僕が法学部のマーケティング担当者だとしたら
法学部は「法学教育サービス」という財の売り手です。当然、市場においてどのような「法学教育サービス」に価値があるか、という顧客のニーズに合わせて、その財の性質を変えてきたはずです。
さて、では市場とはどこでしょうか。もちろん、司法ビジネスです。この司法ビジネスにおいて価値があることというのは、司法権憲法上独占している裁判所が支持しているか否かで決まります。では裁判所は経済学的なアプローチが必要な判例を出してきたでしょうか?
残念ながら、経済学的アプローチの必要のない、個別の事情を斟酌したアドホック判例を量産しているのではないかと思います。

これこそが、日本の法学部が「法学教育サービス」において「法と経済学」を軽視してきた理由です。だって顧客が求めていないのですから、そんなものは無視するのが正しいマーケティングなのです。 
なぜ「法と経済学」の伝播が各国によって異なるのか―――その答えは、各国の司法における経済学的アプローチの需要が異なる(日本ではとくに需要が無い)、ということではないでしょうか。


5.2 買収防衛策の例
次に、「経済学的アプローチの必要のない判例」というものが、いったいどれくらいの割合であるのかを分析したいと思います。(ここでの「経済学的アプローチの必要のない判例」の定義は、経済学者が考える効率性を無視した判例、とします。) が、そんな余裕はないので、例として「ブルドック・ソースの買収に関する最高裁判決」  のケースを説明したいと思います。少数のサンプルを例示するだけであたかも全体がそうであるかのように言いくるめる卑劣な論法になってしまいますが、ご容赦ください。
ブルドック・ソース事件判決では、a)株主総会で買収防衛策が賛同を得られたこと、b)買収者(スティール・パートナーズ)に補償が支払われることをもって、ブルドック側の買収防衛策は適法だと結論付けました。しかし、この判決は、i)補償目当てのグリーンメラー(金銭目的で株式買占めをする者)を助長する、ii)株式の持合いを助長する、などの弊害が指摘されています。実際に、判決後買収防衛策を採用する上場企業が増えました。

この判決は会社法の目的である企業価値の最大化(効率的な状態の達成)を妨げるものです。しかし、「株主がいいといっているのだからいい、買収者も補償金を払われているのだからいい」という個別的な正義をかかげて、それを正当化しました。

この判決を見た多くの人は、日本じゃ「法と経済学」なんて学んでも使いどころがないよね、とため息をもらしたのではないでしょうか。

*1:自益権:会105条1項1号、453条

*2:供益権:会105条1項3号、308条